1991年の9月。僕は小学5年生だった。
出場する予定のない運動会の練習にいやいや参加し、各種手続きのため日毎にてんぱってゆく両親の背中を見つめ、あまりしゃべったことのない隣のクラスの奴から「元気で帰って来いよ!」と声をかけられる。
そんな日本の秋の空気を、なんとなく覚えている。
目の前に迫った”大移動”をどこか他人事のように捉えながら、次週のジャンプの『ドラゴンボール』の行方が気になる年頃でもあった。
いまだに信じられないのだが、僕は小学生の頃、アメリカに住んでいたことがある。
1991年10月から1992年9月までの1年間、父の仕事の都合でペンシルベニア州のハーシーというところにいた。
あのHERSHEY'Sのチョコレートで有名な街。
家から一歩外に出れば、カカオの香りが漂うような街。
平和で、自然豊かで、冬はめちゃくちゃ寒い、ささやかにも程がある街だ。
ニューヨークなどの大都市のように日本人学校や補習校に通う選択肢などなく、いきなり現地校に放り込まれるという経験をした。
もちろん、それまでの人生で英語を使う機会は皆無。
大人になった今振り返ってみても、あの時どうやってコミュニケーションをとっていたのか謎である。
それでも日本に帰る頃には、小学生同士の会話がそこそこ成立するまでになったのだから、謎は深まるばかりだ。
こういう話を始めると、「へえへえ、帰国子女、よござんすね」とか「へんっ。アメリカかぶれめ」なんて言い出す輩が一定数出てくるのだが、まぁ確かにその見方は正しいのかもしれない。
鼻持ちならない奴って、いるもんね。
でも、ちょっと待ってほしい。
帰国子女という括りのなかにも、人それぞれの事情というのがあってですね。
僕のように1年という比較的短い期間(それでも小学生にとっては長い)の人もいれば、2,3年あるいは4, 5年というまとまった期間を海外で暮らした人もいる。
大学では、「高校まで海外に住んでました」なんてのが少なからずいた。
何が言いたいかといえば、人それぞれに背負っているストーリーの多様性を認めてほしいということだ。
彼はあなたが思うよりも遥かに素晴らしい経験をしているかもしれない。
彼女はあなたが考えるよりもずっと苦労しているかもしれない。
1991年から1992年にかけて、世界は目まぐるしく動いた。
僕はアメリカの田舎町でつららを拾い集めたり、MTVにハマったりした。
この何でもない幻のような1年のことを書かずに僕は死ねない。
【続】