志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と英語【第4回】

 すっかり春である。右の口内炎が癒えたかと思えば、左にも新しいのができ、ああ人生ってままならない。チョコラBB、もしくは我に塗り薬を。

 ここ数日、卒業式帰りと思しき親子連れを見かけたりして、季節の移り変わりのスピードを想う。この先、新緑を迎える頃までは落ち着かないものなんですよね。入学前後のソワソワには人一倍、敏感な性質なのだ。

 僕は入試における帰国子女枠なる制度とまったく縁がなかった。今はどうなっているのか知らないが、90年代初頭の大阪では、2年以上の海外在住経験がないと帰国子女とは認められなかった。「1年間日本にいなかっただけ」の僕は、普通に私立中学を受験して入学資格を得た。「英語もできるし、入試で便宜を図ってもらえるし、お気楽な立場よネー」なんて嫌な考えを抱いていた人も周囲にはいたようだが、大間違い。実に勝手なことを言う。

 勝手なことといえば、アメリカに旅立つとき、当時小5のクラスのみんなから寄せ書き的な文集をプレゼントされたのだが、「留学がんばって!」などと頓珍漢なことを書いてきた子たちが何人もいた。「留学とちゃうねん。親の仕事の都合で行くだけやねん」と何度言ってもわかってもらえなかった。「海外に行く=留学」と親が吹き込んでいたのだろう。無知もここまでいくと呆れかえるばかり。どう考えても、小学生が留学するわけがない。

 閑話休題。いわゆる帰国子女のなかには、日本に戻ってからコミュニティ内で浮いたり、いじめられたりといった事例も多い。僕が鈍感だっただけなのか、周りが温かかったからなのか、帰国後の中高で取り立てて窮屈な思いをしたことはない。それでも空気を読んで、「英語ができ過ぎないように」振る舞う必要がまれに生じた。たとえば、NIRVANA。日本で現在に至るまで流通しているのは「ニルヴァーナ」という表記であり発音だが、ネイティヴは「ナァーヴァナ」とある種のくぐもった声で表現する。僕も93年頃まではその「くぐもり」に倣って発音していたと思うのだが、カート・コバーンの死をきっかけに、同級生の間でNIRVANAという存在が発見されてからは、日本式に「ニルヴァーナ」と呼ぶことにした、はず。水面下でこの種の微調整を徹底したおかげで、高校に入る頃にはいい塩梅に「なんちゃってネイティヴ発音」が抜けた。

 たまに僕に「アメリカかぶれ」という烙印を押したがる輩も現れたけれども、何を言っておるのかという感じで眼中になかった。ただ、ティーンエイジャーの頃、自分の中の「アメリカ」を出し惜しみしてしまったのは不健全だったと反省している。学校や塾での英語学習以外に、もっと意欲的に英語を楽しむべきだった。

 唯一、洋楽を浴びるように聴いていたことが、リスニングやスピーキングの維持に役立ったといえるだろう。それこそ、風呂場で「Smells Like Teen Spirit」を鼻歌まじりに歌ったりして、親に叱られたこともある。マンションの廊下まで僕の変な声が響いていて、恥ずかしかったのだそうだ。……思い出した。僕は高1だったか高2だったかの春休みに初めて級友と一緒にカラオケに行くという経験をした(男子校なので、全員野郎ですが)。母校は校則が厳しく、カラオケボックスに出入りすることさえも確か禁止扱いだった。僕以外はカラオケ慣れしていて、尾崎豊を異様に上手く歌いこなす者までいる始末。さて自分は何を歌うべきかと悩んだ挙句、BON JOVIの「You Give Love A Bad Name(禁じられた愛)」を選んだ僕のセンスよ。当時はそういう曲を好むキャラだと認識されていなかったので、その場に居合わせた3~4人は驚くばかり。そこで歌の上手い尾崎氏が絶賛してくれたことが大きな自信となったのだ。

 日本語の歌はそんなに得意じゃないが、英語、特にアメリカ英語のロックの歌い回しはまあまあなもんだと自負している。「どこからそんな自信が来るの?」と訝し気な視線を送る人もあることだろう。大学3年から大学院修士課程にかけての4~5年間、軽音サークルでヴォーカルを務めていたことは以前どこかで書いたと思う。ここで温かい友人たちがチヤホヤしてくれたおかげで、初めて英語や歌唱力に対する確信のようなものを持つことができた。まあ、カラオケ含め、10年以上人前では歌っていないので、さぞ、か細く情けない声になってしまったことだろう。あれは一瞬の青春の輝きでしたね……。

 何が言いたいかといえば、自分が最大級に自分らしくあれる場所に身を置きましょうということだ。僕の場合は、それがたまたま音楽を介した場所だった。どんな境遇の帰国子女も一定以上の悩みを抱えているのだとお察しする。僕がアメリカ生活を経験した30年前と違い、現在はSNSをはじめ「距離を縮める」さまざまなツールがある。これらをフル活用して、喜びや悲しみを共有できる人を探すとよいだろう。それが簡単でないことは承知しているけれど、世界の広さはまだまだ捨てたもんじゃない。

 40過ぎてから余計に思うようになったことだが、僕はどう考えても中途半端な帰国子女だ。その中途半端さが武器でもあり、命取りにもなっている。同じような立場の人に手を差し伸べたいと常々思っているのだけれど、具体的に何ができるのだろう。一歩踏み出す勇気。そして何より、英語を舐めてはいけない。そんなことを考えながら、春を迎えます。