志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学【第6回】

 3年生ともなると、学内外の事情に明るくなり、心理的に余裕が出てくる。充実の季節、と断言できれば素敵なのだろうけれど、よくよく考えてみれば、あの頃の自信は意味不明で恥ずかしい。寝る間も惜しいくらいに、目に飛び込むすべてのものを吸収していたのがこの時期だ。

 前回記したように、これまで生きてきたなかで最大級の勇気を振り絞ったのがメロユニ入部だった。「そりゃまた大袈裟な!」とツッコまれそうだが、いや、本当なのだ。大学院時代を含めて、がっつり活動したのは正味4年ぐらいだったが、この中で出会った先輩・後輩・同級生の誰一人が欠けても、現在の自分は成立しなかったと断言できる。ありがとう。いや、今ここで言うセリフじゃないけれども。

 この時期のことを思い出すととめどなくなるので、ポイントに絞って語ろう。そもそも「メロユニ」って、なんだ? 今はどうだか知らないが、当時はICU唯一のロック系軽音サークルで、いわゆる「うるさい音楽」が好きな人が集まっていた。活動方針は非常にゆるく、コピーバンド主体、まれにオリジナルをやる人が現われるという程度。僕が愛するハードロック/ヘヴィメタルはどちらかといえば日陰者の音楽で、ヴィジュアル系(という概念すらまだ出来立てホヤホヤだった)をコピーしようものなら、「ネタ」とみなされる風潮すらあった。どちらかといえば、パンクやオルタナに寄ったサークルだった。

 ちなみに、姉妹サークルにJFK(Jazz Funk Keystationの略称)があり、こちらはジャズやフュージョンが主体、ということになっているが、実態はお洒落系ポップ・サークルだったと認識している。「どジャズ」をやっている人はほとんど見かけなかった。PAT METHENYとかSTEELY DANが好きな人はここ。EGO-WRAPPIN'、ハナレグミ菊地成孔のファンもここ、といった感じだろうか。メロユニとは音楽性において対極だが、互いの仲は良く、兼部・客演している人が多かった。

 両サークルに共通して言えることなのだが、主として学期の始まりと終わりの年間5、6回、学内の多目的ホールなどでライヴをやるのである。パーマネントなバンドは無きに等しく、イベント開催ごと、たとえばブルーハーツをコピーしたい人が集まってバンドを組む、という流れ。1バンドの持ち時間は15~20分程度。僕にとっては、このいい加減さがなんとも心地よかった。

 楽器を熱心に練習するというよりも、部室でまったく音楽と関係のない話をして、ゲームやってる人の画面を複数人で眺めて、ラーメンやカレーを食べに行くというのが日常的光景だったように思う。意識は低く、居心地は良い。つまりは人間をダメにするサークルのひとつだったのだが、こういう環境に飛び込んだからこそ、「一般的なICUらしさ」から一定の距離を保てたのだと思う。

 このサークルに入ってよかったのは、自分があまり熱心に聴いてこなかったバンドの良さを、友達のライヴ・パフォーマンスを通して発見できるという点だ。ミッシェルやブランキーなどが、まさにそう。toeTHE CARDIGANSなんかも、メロユニでの出会いがなければ、食わず嫌いのままだったかもしれない。正直に告白すれば、筋肉少女帯を初めて聴いたのも友人たちのコピーバンドを通してだった。J-POP、プログレ、アニソンなど、タフな雑食性を身につけられたのはメロユニとJFKのみんなのおかげです。ありがとう(まだ言ってる)。

 ちなみに、ディスクユニオンレコファン(吉祥寺のレンガ館にあった時代!)などの中古CD店に日参するようになったのも、この時期である。文字通り、狂ったようにCDを買い集めては聴きまくっていた。どこにそんな時間があったんだ? というくらいに。20代はじめの体力と行動力は無限だったんだな……。

 2年生の秋に入部して、徐々に周囲との距離を縮め、半年が経っていた。3年生の4月、新入生歓迎ライヴで、僕は生まれて初めてのライヴに臨んだ。しかも、PANTERAのコピーバンドのヴォーカルとして。それまで、あんなスタイルの咆哮をやったことがないにもかかわらず、だ。ここら辺の事情を書くだけでドキュメンタリー番組1本分くらいの分量になりそうなので、すべてを省略! ただ、確実に言えるのは、この日をきっかけに、ステージに立つ快感を覚えたということだ。今まで観ていた立場だったものが、観られる立場になるという逆転現象。僕は全オーディエンスに告げたい。一度でいいから、ステージに立ってみなさい。あの空間を掌握できるのは、選ばれし者のみなんだぞ、と。今思えば、舞台芸術に対する畏怖と敬意が芽生えたのは、あの日歌った(吠えた?)「Mouth For War」「Fucking Hostile」「Cowboys From Hell」があったからこそ。あれ? 「Walk」もやったのかな? まあいいや。とにかく、普段の僕(温厚)とのギャップが凄いセットリストですね。

 その後、6月のDEEP PURPLE(「Highway Star」「Speed King」「Burn」)、夏合宿(これもドラマ多数だが、今は省略)を挟んで、9月のHELLOWEEN(「Where The Rain Grows」「I Want Out」「Eagle Fly Free」)と快調にヴォーカル道を突き進む僕であった。こう書くと、なんだか「『BURRN!』の申し子」みたいな選曲だが、実際にそうだったんだから、仕方がない。

 そして迎える文化祭シーズン。ICUにはBALLという学食で行われる大規模(?)ライヴがあり、GUNS N' ROSES……と今回のお話はここまで。あまりにあの頃の自分が眩しくて、涙目でこの記事を綴りましたとさ。

デビュー10周年でした

 ツイッターでチョロッと書いたから、まあいいか。と思ったけれども、やっぱり節目だもの、ちゃんと記しておかねば。外は晴れていることですし。

 2023年5月20日をもって、文筆家デビュー10周年を迎えました。いつも温かく見守ってくださっている皆様、本当にありがとうございます。一人ひとりの優しさのおかげで僕という生き物は成り立っております。

 ものすごく凸凹の多い道のりではありますが、なんとか消滅せずに済んでいます。この10年、短すぎました。良いことも悪いことも、振り返ってみれば、全部糧となっています。感慨深いです。

 一応、商業誌デビューをもって「文筆家デビュー」としてみました。アマゾン等の書誌情報によれば、2013年5月20日発売の『MASSIVE Vol.10』にて筋肉少女帯のことを書いたのが1発目ですね。そして、翌週5月27日発売の『ユリイカ山口昌男特集では、道化論について寄稿しました。こちらは本名名義ですが。

 なんだか遠いところへ来てしまったような、そう遠くもないような、不思議な気分です。物を書いてよかったのは、思いがけない出会いがたくさんあったことです。「つくちゃん」とか「つくねさん」と気軽に呼んでもらえる未来を、若い頃は想像だにしていませんでした。その一方で「志村」とか「志村くん」と相変わらず呼んでくれる皆さんのありがたさを噛み締めている。(本名の下の名前で呼ぶのって、家族ぐらいだなぁ。)

 話が脱線してきた。物書きとしての自分の持ち味ってなんだろうな? と考えてみたのですが、「誠実に対応し、締切は守る」ということぐらいですかね。あとはなるべく論理的に構成することとか? よくわかりません。

 物を書きたかった人が物を書けているのは、幸せなことではないか。そんなシンプルな結論に行き着きそうです。仕事の量だって全然多くはないし、まだまだ世間に認知されているとは言い難いですが、そこはこれからの5年、10年と頑張っていくぜ! と気合いを入れてみます。

 どう考えても、ハッピーな方向に行くのがいいですよ。

 というわけで、デビュー10周年を迎えたからといって、べつに何もしません。僕が大切にしている言葉を記して、この文章を終わろうと思います。敬愛する映像監督が何気なくかけてくださった言葉です。

 

 「つくちゃんは、そのまんまがいいよ」

 

 皆様、これからもよろしくお願いいたします。

僕と大学【第5回】

 前回の記事からだいぶ間隔があいてしまった。なるべくイイ心持ちで更新したいのだが、とびきりハッピーな日というのがそう多くはない今日この頃である。文筆の神様の降臨を待っていたら、1本の記事を更新するのに2年も3年もかかってしまいそうで怖い。とりあえず、先へと進めてみる。

 かなり真面目に学部時代の前半を過ごしてしまった僕は、自分が本当にやりたかったことを実行に移せていないのではと考え始めた。男女問わず何人も友達はできたけれども、その幅をもっと広げたい、趣味のことなど深く語り合える仲間が欲しいというのが本心だった。でも、自分の趣味って何だ?

 どうも僕は音楽を聴くのが好きらしい。さらに言えば、ティーンエイジャーの頃から、バンドをやることに強い憧れを抱いていた。たとえば、高校の学園祭でバンド演奏を披露する同級生のことがとても羨ましかったのだ。と同時に、「自分ならこうやるのになぁ」と上から目線でその光景を見つめていたのも事実。これだけ音楽が好きなんだもの、おれがステージに立てばきっともっと上手くやれる! とさえ考えていた気がする。若いって、怖い。これはもう、モテたいとかそういうことを超越した表現欲に近いものだったといえよう。

 「自分はそういうキャラじゃないから」「きっと似合わないだろうから」そういった理由で、心底やりたいことに蓋をしてしまうのは、なんと勿体ないことだろう。9.11後の僕は、惰性で過ごす時間を嫌うようになっていた。大袈裟な物言いではあるが、ここで人生の選択肢を間違えると、つまらない人間になってしまうと思っていた。

 2年生の秋、僕はICUロック系軽音サークルMelody Union(通称メロユニ)に入った。入ったといっても、しばらくは週1回のミーティングに参加するだけだったのだが。ここからステージに立つまで、実に半年の時間を要することとなる。ここら辺が、なんでも慎重派の僕という人物を物語っていますね。

 たまたま、1年次の英語クラスの同級生が部長をやっていた時期だったのだ。「難しいこと考えずに、とりあえずミーティングに来てみなよ」みたいなことを言われて、ほいほい顔を出したのが、メロユニの人たちとのファースト・コンタクトだった。その後、何年も時間をかけて和気藹々としたサークルへと変貌するのだが、この時点では、「良くも悪くも、やな感じ」な雰囲気で、新参者に対して冷たい印象があった(のちにそういう誤解は解けるのですが)。

 自己紹介ではベーシストということにしておいた。本当はヴォーカルをやりたかったのだけれど、初対面の人たちにそんなことを言ったら、痛いヤツだと思われてしまう! そんな恐怖があった。1年生の時に買ったベース(Burnyの黒のモッキンバード型)を所持していたから、嘘はついていないはず。ただし、弾けるとはひと言も言っていないけれども。

 「SLAYERとかSLIPKNOTが好きです、あっ、でもでも、スピッツ尾崎豊なんかも聴きますので仲良くしてください」と言ったら、プププと失笑された。それもそのはず、当時の上級生はいわゆるロキノン系のオルタナ愛好者が多く、ハードロック/ヘヴィメタル好きを公言している人はレアだった模様。J-POPのアーティスト名を挙げても、生暖かい目で見られそうな空気があったし、ヴィジュアル系など小馬鹿にされそうな気配だった。

 実はこの時、一番好きなGUNS N' ROSESのことは1mmも口に出さなかった。そのバンド名を口に出して否定でもされたら大変だ、居場所がなくなる! X JAPANとHIDEについても、ここぞという時に出すべき名前ということで、いったん封印しておいた。というわけで、さっそく幽霊部員になる要素はあったが、少しずつ周りとの距離を縮めていき、自分が一番輝いていた時代のひとつへと至る……のだけど、この話は次回以降だな。

 課外活動が充実し始める一方で、肝心の学問はどうなったか。この頃から、のちに卒論と修論の指導教官となる並木浩一先生のオフィスに頻繁に顔を出すようになる。先生は、公式なオフィスアワー以外の時間も常に研究室の扉を開け放した状態で、よろず相談承りますというスタイルだった。これが良かった。

 先生の授業(「聖書学概論」?)の期末試験で、その学期の自己評価をエッセイ形式で書いて提出するという課題があった。赤字のコメント付きで返ってきたその答案を見たときの感激を忘れない。「アハハ!」という言葉とともに「作文賞」という文字が添えられていたのだ(たしか成績はA-)。ああ、僕は並木先生を楽しませることに成功したんだなという感慨を抱いた。と同時に、自分は物が書けるのかもしれないぞと自信を得た出来事でもあった。

 旧約聖書学が専門の並木先生ではあるが、僕はまーったく宗教方面の人文科学を学ぼうとは思っておらず、先生の知的刺激に富んだ仕掛けづくりに惹かれていた。ここで文化創造のダイナミズムを感じたことによって、「こんなふうに学問を楽しめるのなら、このまま大学院に行くことが自然だよなぁ」と思えたのである。

 そうこうするうちに、あっという間に学部時代は折り返し地点。自分がもっとも輝いていた時代、すなわち、遅れてきた大学デビューであるところの3年生が始まるわけである。僕が初めてステージに立ち、舞台芸術やパフォーマンスに関心を持つ入口となった学年。ようやく、本題めいたことを語れるかもしれない。

 一時期、中二病という言葉が流行ったけれども、大学2年生にして、僕はまさにそんな状況に陥っていた。自分では年相応のつもりなのに、傍から見れば、ずいぶん背伸びした言動を繰り返していたように思う。思い出すこと、思い出したくもないこと、たくさんあるが、何もかもが甘酸っぱい……。

 なんかこう、実名を出さずにメロユニ(これは実名か)のあれやこれやを書くのは技量が要るな! こういうときに、小説という手法が生きるのかもしれない。この連載、ある時点から小説に化ける可能性があります。

僕と大学【第4回】

 何を隠そう、僕は2023年4月末現在、ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(I.W.G.P.)にハマっている。恥ずかしながら、ずーっと観たことがなかったのだ。ディズニープラスに入会したのをいいことに、1日1話と決めて、夜な夜なブクロをパトロールしております。主演・長瀬智也、脚本・宮藤官九郎、チーフ演出・堤幸彦、主題歌・Sads「忘却の空」、その他、豪華キャスト多数! なるほど、今の地上波ではコンプライアンス的にマズい中身なのかもしれないが、そこをなんとかお願いしますと頭を下げたくもなる。当時の空気を生々しく伝えていて、ストーリー展開が刺激的。クスクス笑えるところもいい。

 この主人公たちと同世代だったと思うと妙に感慨深くなる。僕が大学生になってからの作品だよなと思って調べてみたら、2000年4月から6月にかけて、つまり、入学したての頃の放送だった。現実が過剰に充実していて、テレビどころではなかった時期だ。映像といえば、当時住んでいた部屋から徒歩3分ぐらいのところにレンタルビデオ店があったのをいいことに、押さえておくべき古典は2年生ぐらいまでにかなりの数を観た。最低でも週に2、3本。といっても、『タイタニック』とか『ロッキー』ですが。ゴダールタルコフスキーを少々……なんてカッコよく言ってみるのが文系大学生という感じもするけれど、僕は基本的に胸のすくハリウッド映画が好きで、今でもその傾向は続いていると思う。さっき、参考までにmixiのプロフィール欄に挙げていた「好きな映画」を確認してみたが(mixiを開くのも10年ぶりぐらいだ!)、『スターシップ・トゥルーパーズ』やら『ラブ・アクチュアリー』などと書いてあったので、そっと画面を閉じた。ハタチの頃に見聞きしたものは、その後の嗜好を決定づけるとみて間違いはない。

 ようやく、大学2年生の頃のお話だ。やはり、1年生という生き物は、どこか自分を大きく見せようとしているところがある。知的な生意気度の高さにおいて、ICUの1年生ほど厄介なものはないと僕は考えていて、じじつ、多くの学生が無敵かつ無邪気な顔をして歩いていた。僕も例にもれず、広大なキャンパスの四季折々の表情を愛でながら、リベラルアーツの恩恵を享受していたように思う。

ICUは英語ばかりやっている」というのは誤解で、集中的に英語のカリキュラムに取り組むのは1年生いっぱいと2年生の一部の期間のみ。あとは各々の関心分野に進み、自由に羽ばたいてくださいというスタンスだった、今はどうなっているのか知らないが。人文科学科に所属しているものの、さて自分は文学をやりたいのか、哲学に挑みたいのか、はたまた美術を研究したいのか、さっぱりアイデアが湧かなかった。こういうのは時間が経てば解決すると信じて疑わず、どうせなら面白そうな授業に出て単位を埋めていこうと、真面目に大学生していた。この頃はまだ、本の読み方・集め方の基礎すらわかっていない。素直に講義を受けるだけでは何の成長もないよなぁと、ときどき窓の外の芝生を眺めたりしていた。

 この年の6月末に最愛の祖母が亡くなった。たしか、春学期の期末試験の最終日に報せを受けて大阪に帰ったのだ。この辺の出来事は高3の終わりから続く闇の要素が強いため、今回は割愛。いつか自分を見つめ直して筆をとることもあるかもしれない。

 さて、その夏、僕は車の免許を取得している。人の命は有限だ、今できることをベストを尽くして、やる! と一念発起したのだったか、僕は生まれ変わるような気持ちで大阪の祖父母宅の近くの教習所に通い、なんとかミッションを果たした。年相応に大小さまざまな地獄を経験したつもりではいたが、教習所通いほど緊張で押しつぶされそうになる出来事はなかった。よせばいいのに、MTのコースに通ったものだから、実家に車のなかった僕は最初のシミュレーターの段階でちんぷんかんぷん。せめてAT限定にしておけばよかったと今でも後悔している。本当に、ウマが合う教官とそうでない輩との差が激しいものなのだ。人間の相性について、これほど考えさせられる経験はない。なお、僕は免許取得後、一度もハンドルを握ったことのないゴールデン・ペーパードライバーで、他人様の車に乗せてもらってばかりのアンポンタンとして生きている。運転せよと言われても、あなたの命の保証は皆無。AC/DCという偉い人たちも「HIGHWAY TO HELL」と言っている。

 秋学期開始直後の2001年9月11日。武蔵小金井の下宿でボケーッと読書していたら、帰省時に会ったばかりの高校の同級生から電話がかかってきた。そもそも僕は電話嫌いなので、その包囲網(?)をかいくぐって連絡してくるとは、たいした度胸だ。

「ちょっと大変なことになったから、テレビつけてみ?(ニヤニヤ)」うながされるままにニュースステーションをつけたら、飛行機がビルに飛び込む映像が流れた。「な? 大変なことやろ?(ニタニタ)」電話越しにそう言われた僕は思考が停止したまま、なんとも返答できずにいた。この日を境に、なんとなく彼とは疎遠になってしまった。人類史上の重大事件に対して、根本的に考えが違う。こんなときは、深呼吸して、それまでの彼/彼女との関係性を考え直すという勇気も必要だと思った。

 この頃から、「やりたいことをやらないで、何が大学生か」と自問自答するようになる。21歳の僕の心は複雑に燃えていた。そして、ひょんなことがきっかけで軽音サークルに入ることになったのだ。

『ザ・ビートルズ:Get Back』を観た(そして膝から崩れ落ちた)

 人知れずディズニープラスに入会した。そして、2カ月かけてじっくりと『ザ・ビートルズ:Get Back』を観た。3部構成、約8時間のドキュメンタリーだ。ここまで悠長なペースで鑑賞しようとは思っていなかったのだが、各シーンの情報量の多さに圧倒され、1日に10分から20分程度観るのがやっとだった。

 2021年11月の公開当時、かなり話題になった映像なのだが、ご覧になった方はどれくらいいらっしゃるのだろうか。なぜこんなことを尋ねるかというと、本ブログの読者に、いや全世界の人々に、今やっている仕事の手を止めて、この貴重な映像を観てもらいたいからだ。この記録映画は、人生観がまるで変わってしまう事件である。

ロード・オブ・ザ・リング』三部作のピーター・ジャクソンが監督を務め、約60時間の未公開映像と150時間の未発表音源を復元・編集したのだという。AIを用いて特定の人物の声や楽器の音を取り出すなど、きめ細やかな修復がなされたフィルムのおかげで、ビートルズの4人の息づかいがリアルに迫ってくる。ロンドンで行なわれた42分間のラスト・ライヴ ”ルーフトップ・コンサート”の完全版が収められている点が最大の売りではあるのだが、そこに至るまでの過程が極めて生々しく、片時も目が離せないほどだった。バンド内に険悪な空気が流れるときほど名演が生まれるなんてことをたまに耳にするけれども、それは本当だったんだ! とおおいに感激してしまった。

 このコンサートの歴史的意義や経緯について書くのが本稿の目的ではない。この2カ月間、ビートルズのリハーサルやミーティングに同席するような気持ちでこの世界に入り込んでいた僕の、今の率直な気持ちを綴っていきたい。手元のメモにはこんなことが殴り書きされている。

※ここから先はネタバレ、とまではいかないけれども、未見の人のお楽しみを奪ってしまう可能性がある。あまり読みたくない内容に差し掛かったら、薄目で読むなど対処していただければ幸いです。

 

 ジョン:優しくお茶目。スタジオ・ワークではウィットに富んだジョークが頻繁に飛び出す。序盤は好青年といった印象だが、終盤に進むにつれてカリスマ性が増してくるところがいい。特に、ライヴ本番での目つきや立ち姿に惚れてしまった。”ロックの神様”と呼んでも何ら差し支えのないほどの説得力がある。この世にこんな人が実在していたなんて、と感慨深くなってしまう。

 ポール:よく喋る。本当によく喋る。涸れることを知らぬ泉のごとく、音楽的なアイデアを豊富に出してくる。そして何より、歌のうまさだ。彼がメロディをこよなく愛しているということもリハーサルの様子からよく伝わってきた。ベースはもちろん、ピアノやギターも情感たっぷりに弾きこなすマルチ・プレイヤーであることを再確認した。

 ジョージ:ジョンとポールの才能を認めつつも、終始どこか寂し気な表情を見せている。作品中、とある事件が起こるのだが、その前後の彼の眼差しや言動は要注目。「大丈夫! あなたが残した素晴らしい曲の数々を我々は知っているよ!」と慰めたくなる。それにしても、彼もまた偉大なミュージシャンだ。こんな人材が4人も揃っていたビートルズって、一体どうなっとるんだ?

 リンゴ:4人の中ではもっとも口数が少ないが、ここぞというときに見せる可愛さがたまらない。実は、本作を観て「この人、カッコいいな!」ともっとも心が震えたのがリンゴの佇まいと動きだった。やや愁いを帯びたヴィジュアルと独特の間合いのドラム演奏が最高。他の3人のやりとりの傍観者のようでいて、一番深く物事を考えていそう。この時代のリンゴの髪型が個人的にツボである。

 ヨーコ:「なぜそこにいる!?」と何度も声に出して画面にツッコミそうになった。ジョンの隣に常にベッタリの姿を見て、ワオ! 軽音サークルでよく見かけた光景! と変に感動してしまったのは僕だけだろうか。彼女が歴史の証人であり当事者なのは納得だけれども、驚くべき存在感である。ところどころで奇声を上げている。「ああ、奇声を上げる人なんだな」と思ってしまう。

 その他、周りで蠢くスタッフ、貢献度の高すぎるビリー・プレストン、ルーフトップ・コンサートの騒ぎを聞きつけて集まったロンドンの皆さんなど、印象に残る人々を挙げればキリがない。収集のつかなそうな素材をよく8時間にまとめたものだと感服してしまう。

 つくづく、今までの自分は固定観念に縛られていたのだなと痛感する。僕はビートルズを知らなさ過ぎたのだ。24時間のうちに街中で彼らの楽曲を耳にしない日はない。単純にその事実が尊いのだけれども、あまりに当然のように消費しているせいなのか、彼らの偉大さを十分に理解できていなかったのだ。

 自分はマニアではないし、ファンと名乗れるかどうかも怪しい。アルバムはもちろん全部持っているが、それだけではビートルズの神髄に触れているとは言えないと思う。このドキュメンタリー映画を観て良かったのは、「Get Back」や「Don't Let Me Down」といった超有名曲の聴こえ方に大きな変化が生まれたことだ。たぶん、これからの僕は、こうした曲が流れるたびにルーフトップ・コンサートのことを思い出して興奮するだろう。

 歴史的な記述を丸暗記して他人様に披露するのも、ビートルズの楽しみ方のひとつなのかもしれない。でも、忘れてはいけないのは、彼らが創り出した音楽そのものであり、それを演奏するときの肉体である。

 ビートルズはカッコいい。ただ、それだけだ。

僕と大学【第3回】

 前回、ようやく入学直後のことに言及できた。今回は1年生に関して言い残したことをまとめておきたい。自分で言うのもナンだが、大学生活の序盤は勤勉だったと思う。2年生の秋頃まで、サークルやクラブに入っておらず、バイトらしいバイトもした記憶がない。基本的に家と大学との往復だったが、人生初の一人暮らしという適度な緊張感が心地よかった。毎日のように大量の課題が出され、観たい映画や読みたい本も無限にある。1日24時間のフル活用が自分の使命だと本気で考えていた。

 あれは入学式の日のことだったか、学科ごとに行なわれた説明会のようなもので、当時の学科長が「ICUではたくさん学んでください。サークルに入る暇なんかありません。今は授業に集中してください」という趣旨のことを言い放った。嫌なことを言う人だなとは思ったが、変なところで真面目な僕はその言葉を額面通りに受け取ってしまったのだ。もったいないことに、1、2年次の英語漬けの日々を軽視する人たちも一定数いる。学生の中からそういう声が出てくるのはまあ自然といえば自然だが、教員にもそんな人がいると知り恐ろしくなったのは、大学院生になってからのお話。大学というのは、実にさまざまな思想が蠢いている場でもあるのだ。

 いかん、話が逸れてしまいそうになった。

 自分は何を学びたいのかを知るために、1、2年生のうちはじっくり流れに身を任せてみようと考えていた。英語で読み、書き、話し、聴くという徹底的な環境の中で批判的思考力が磨かれていくに違いない。ここは一発、ICUのグルーヴに乗ろう。そう決めたのが良かったのか、悪かったのか……。ハタチの頃のこの種の無垢さがその後進むべき道を準備していたのかもしれない、と今となっては思う。

 大学生活にも少し慣れてきた新緑の頃、「リトリート」と呼ばれる1泊2日の研修旅行があった。今はどんなふうに運営されているのか知らないが、当時は学科ごとに行き先が違い、僕の所属する人文科学科は鎌倉だった。首都圏で中高時代を過ごした人にとっては珍しくもなんともないだろうが、関西出身の僕にしてみれば、未知の遠足のメッカ。昼間はグループに分かれての散策、夜は教授陣に専攻のことなど直接質問できる座談会という流れだったのだと思う。

 その宿舎で目にした光景がいまだに忘れられない。多目的ホールのステージに1台のピアノが置いてあって、それを入れ代わり立ち代わり、複数の学生が流麗に弾いていたのだ。流麗というより、饒舌に。楽譜なしで、聴いたことのないクラシックやジャズを。ロビーのソファでは、互いを牽制するかのように、持参した文庫本で読書合戦が繰り広げられている。馬鹿話をする人もいなければ、UNOで遊ぶ者もいない。その文化度の高さ、サロン的な光景を目の当たりにして、「自分はなんてところに来てしまったんだ!」と卒倒しそうになった。

 まあ、彼女たちのこういう行動もある種のハッタリだと数年後に気付くことになるのだが、周囲の学生の内側から滲み出る教養や探求心は本物だと思った。10代の頃までに出会ったことのないような人たちに囲まれて、僕はひどく恐縮かつ歓喜していた。第二志望だったとはいえ、人文科学科という場は自分に合っているという感触を得た。

 すっかりご紹介が遅くなってしまったが、ICUには教養学部という学部が一つ存在するのみ。当時はそこから国際関係学科、語学科、教育学科、理学科、社会科学科、人文科学科の複数の学科に分かれていた。今はアーツ・サイエンス学科なる名称の組織のもとに、よくわからん部門がいろいろと並んでおるようです(雑な紹介)。なかでも人文科学科(通称ヒューマニ)は変人育成機関として名高く、「わたし変わってるってよく言われるのー」などと自称する勘違いさんがたまに出てきたりする。こういう空気だけはどうも苦手だったが、あの種の人たちはその後どんな人生を送っているのだろう?

 話を軌道修正せねば。1年生の夏休みに英語教育プログラムからの呼び出しを受け、秋学期からひとつ上のグループに行くか、そのまま同じレベルのところに留まるか選択せよと迫られた。寝耳に水である。春学期の成績が思いのほか良かったようで、一段階上のグループに行けば、冬学期の英語の授業は免除され、その分、2、3年生が受講するような専門科目をいち早く受講できる。現在のレベルに留まれば、冬学期もみっちり英語の授業を受けることとなり、鍛えられる。さて、どうするか。

 結局、僕はひとつ上のグループで挑戦する決断をした。英語の力を伸ばすという点では、この選択は間違っていたのかもしれない。だが、友達の幅を広げるという意味においては、決して誤りではなかった。ざっくり言うと、上のクラスの学生は現地滞在年数の長い帰国子女が多く、英語力がすでに完成されている印象だった。つまり、”できて当然”なわけで、その輪にいきなり混ざっていくのはけっこうしんどいものがあった。悪く言えば、英語をちょっと舐めているようなところがあり、知的な緊張感を欠いていたのだ。その一方、春学期に在籍していたクラスのほうは頭の切れる人たちばかりで、英語力ではこのクラスに劣るものの、ディスカッションで飛び出す発想などがユニークで非常に勉強になった。なんだか言いたい放題言っているが、本当にそうだったんだから、仕方がない。

 そんな1年次の英語クラスで気づいたのは、自分にはディスカッション・リーダー(司会進行役)の才能があるのかもという点だ。4、5人のグループで話し合ったことをまとめて先生(上司)に報告する。一人ひとりの意見に耳を傾け、より深い考えを引き出す。この経験は今、ミュージシャンへのインタビューに活かされていると痛感する。まあ、この頃はそんな仕事に携わるなんて思いもしなかったけれども。

 ハタチの僕は、暇とも退屈とも無縁だった。今からなら何にでもなれると思った。それぐらい頭がどうかしていた。と同時に、理想的な生活で満ち足りてはいたのだが、なんか物足りないなと感じてもいた。時間だけはたっぷりあると思っていたが、1年生が終わるのは想像以上にあっという間。ほんの少しだけ知的にたくましくなって、僕は2年生になった。

僕と大学【第2回】

 学部1年生だけを切り取っても、思い出が膨大にある。つまりは幸せだったということなのだろう。この時期は浪人時代までの出来事をきれいさっぱり忘れて、新しい自分に生まれ変わろうとしていた。「大学デビュー」を狙ったわけではないが、ハタチの頃の吸収力は並大抵のものではなく、好奇心の泉が涸れることはなかった。

 大学の所在地は三鷹市大沢。「辺境」という語がしっくりくるような、都会の喧騒から切り離された土地である。JR中央線武蔵境駅から15分ぐらいバスに揺られるのが一般的なアクセス方法だが、地方出身者のほとんどは武蔵境、東小金井、三鷹周辺に下宿し、自転車で通学することになる。その小回りの良さに気付いた自宅通学組も結局、武蔵境~大学はチャリで移動したりするのだが。ちなみに、おしゃれな都会の空気に触れたくなったときは吉祥寺で決まりだ。学外での青春のあれやこれやは、だいたい吉祥寺で起こるものである。

 話を元へと戻そう。僕は武蔵小金井の6畳ワンルームで新生活を開始した。大学に近すぎると溜まり場になってしまうだろうという予感と、東京出身で鉄オタの父による直感が決め手だった。たしか、春学期(ICUは3学期制)は2つ隣の武蔵境まで電車で移動し、バスに乗ってキャンパスまで行くという面倒な方法をとっていた。何人ものクラスメイトからチャリのほうが便利と説得され、秋学期からはおっかなびっくり自転車通学を始めたのだった。これが効果てきめんで、小金井から三鷹にかけての四季折々の風景を満喫しながら有酸素運動を行うことができた。その後、痩せたり太ったりを繰り返すのだけれど、友人たちの間では脂肪の塊と認識されている。

 あまり公にはしていないが、僕は大学のこの時期まで自転車に乗れなかった。ティーンエイジャーの頃に乗る必要を感じなかったうえに、小学生のときの自転車訓練由来のトラウマのようなものを抱えていたからだ。人間、究極の必要に迫られると、なんとかなるものと知った貴重な経験である。

 入学式の翌日ぐらいに、英語のクラス分けのためのTOEFLを受けさせられた。ことに学びの面において、ICUは容赦ない。そんなものを受検したことはなかったので、頭がクラクラしたのを覚えている。とはいえ、そこは夢と希望に満ちた新入生。ベストを尽くした結果、僕は能力別に大きく3グループに分けられたうちの真ん中のクラスに所属することになった。ちなみに、すでにネイティヴ並みの英語運用能力を獲得している者はこの1、2年次の英語教育プログラム、通称ELP(English Learning Program)が免除される。それはそれで、この大学に来た意味のほとんどを剥奪されるような扱いだと思うのだが、どうなんだろうか。

 2年生の序盤ぐらいまで、この20人ほどの少人数クラスが学内の行動の基本単位だったように思う。ICUの男女比は男:女=4:6とか3:7といった塩梅で、女性のほうが多いのである。男子校出身の僕は常に赤面……ということはまったくなく、ごく自然体で周りのみんなと接することができた。男女ともに、打てば響くような賢い人が多く、毎日、驚くべき刺激を受けていた。ハタチの頃の僕は知的にハイになっていたとも言える。理想的な環境で、優秀な同級生に囲まれ、これ以上何を望むのだろう? 自分が本当にやりたいことは何なのだろう? 青春の自問自答がここに始まった。