「英語できる?」と聞かれたら、「うーーーーん。僕よりもできる人はいっぱいいますよ」と答えてしまう。
もっと正確に言うならば、できると言えばウソになり、できないと言えばウソになるレベル。
周りの "できる" 人たちの能力を見ていると、今でもやや卑屈になることを告白しておきましょう。
海外生活が長かった人やインターナショナル・スクールに通っていた人にはどうにも敵わない。
身振り手振りやタコ踊りや苦悶の表情を交えてであれば、相手が誰であろうと、そこそこのコミュニケーションが可能であると自負している。
ブサイクに振る舞うことが、時として大切なのだ。
でも、ビジネスの交渉やネイティブスピーカーへのインタビューは、キリッとした通訳の力を借りないとダメでしょうね。
要するに、僕の英語力だと、フィーリングばかりが先行して、大事な細部を見落とすということになりかねない。
とっても危険なのです。
英語を習得するには、実際にたくさん使ってみることが肝心なのだと思う。
まちがいを恐れずに、原始人が物々交換をするかのような手つきで。
泳げない子をムリヤリ海なりプールなりに放り込むと、いつの間にか泳げるようになるというでしょう?
あれです。沈む人も多いとは思いますが。
僕は運よく11-12歳という、周囲の状況に対して "ワケがわかっている" 年齢で(小学生なりの)英語を浴びたのがよかった。
主にアニメや天気予報やMTVを通して、雰囲気を吸収。
あと、日本人が周りにほとんどいないこともラッキーだった。
地球上のどのコミュニティでも、悪しき "日本人村" の風習は付きまとうもので、僕の家族はそのことでおおいに疲弊したりもした(この話はいずれまた)。
1年という、短くも長くもない期間にしては、「いい発音してるね」って言われます。
東海岸風。
発音だけです、まれに褒められるのは。
モノマネぐらいの役にしか立ちません。
『のだめカンタービレ』という漫画がある。
主人公ののだめがひょんなことからフランスへ行くことになるのだが、そのとき彼女がフランス語をマスターできたのは、かの地のアニメのセリフを暗唱したことによってだった(はずです。記憶がいい加減だ……)。
何が言いたいか。
無邪気なテンションに勝るものはないということです。
そして、「友達を作りたい!」「恋人ともっと会話できるようになりたい!」「この曲を流暢に歌えるようになりたい!」という本能の燃えさかりこそが語学上達の秘訣なのだと思う。
いざとなったら、日本語で伝えてみよう。
テレパシーでも、いいじゃないか。
GAMBATTE!
……なんか、英会話教材の宣伝みたいな文章だったなぁ、今回は。【続】