完全に暖かくなってしまった。春だ。卒業・入学シーズンだ。どうなんでしょう、この1年の目まぐるしさというやつは。
ネットで本を注文することが増えた昨今ではあるが、相変わらず書店で紙の匂いを嗅ぐのが好きだ。先日、何気なく語学のコーナーをぶらぶらしていたら、平積みされたTOEIC対策本の数々がいやでも目に飛び込んできた。受験参考書もそうだけれども、あれだけ種類があったら、どれを手に取ったらよいのか混乱してしまう。ついでにお腹も痛くなってしまう。
人生で3度、TOEICを受けたことがある。初めて挑んだのは、就活が近づいてきた大学3年の頃。何の迷いもなく大学院進学を希望していた僕だが、その時は周囲の流れに乗ってみようと思ったんだろうな。魔が差した。テスト対策を一切やらずにお気楽な態度で臨んだら、まったく時間が足りず、最後の50問ぐらいが手つかずになってしまった。マークシートを塗りつぶす暇さえもなかったと記憶している。同学年の皆が就活モードへと「仕上げている」なかで、相当恥ずかしい思いをした。「就職するわけじゃないから、出題傾向がビジネス一本鎗のTOEICは気にする必要ないし~」などと甘い考えを抱いていた当時の自分をひっぱたいてやりたい。
2度目と3度目のTOEIC受検はコロナ禍に突入する1~2年ほど前の話だ。初受検から15年ほど経ち、自主的に受けてみようと思い立ってのこと。思えば、僕の大学院生活は英語コンプレックスを増幅させるのに十分な期間だった。その呪縛が薄まってきた今こそ! と思い、今回はTOEICの攻略本を何冊か「読書」した。結果は思ったよりもたいしたことがなかった。2度目から3度目にかけて10点だけスコアアップしたが「10点だけかよ!」とのけぞった。それなりの年齢になり、相応の経験を積んだとはいえ、シビアなものである。
この時期に出会った本のなかに、清涼院流水『TOEIC(R)テスト300点から990点へ、「7つの壁」を突破するブレイクスルー英語勉強法』(講談社)がある。この中で彼が説く「ドリームキラー」との戦い方に今も励まされている。ドリームキラーとは、夢の大小を問わず、他人に対して「そんなの無理だよ!」とか「そんなことして何の意味があるの?」と決めてかかる人たちのことを指すのだという。彼らの中には親切心からそういう発言をする人もいるのだが、多くは無責任なだけ。余計なお世話なのである。こやつらを適切にやり過ごすことが本当に大事なのだと、僕はコロナ禍以降のある時期から強く思い始めた。自分の人生には自分でけじめをつけたいじゃないですか。たとえ身内や友人といえども、土足で踏み込まれてはならないゾーンってものがある。
なんだか話がズレてしまった。大の大人が目標のスコアを定めて、それに向かって勉強するというのはどえらいことだと思うのです。さらには、決して多くはない時間をやりくりして何事かを成し遂げる尊さ。TOEICは、TOEIC用の勉強をしっかりとやらないと満足のいくスコアに到達できないように作られている。時間配分や出題傾向をしっかりシミュレーションしないと、頭からプシューと湯気が出る仕組みなのだ。
人間の器は肩書で測れるものではない。ましてや、点数でその人の能力を判断できるものではない。そんなの、わかってるよ。つべこべ言わずに、迫力のある「しるし」を示すことが時には必要なのではないか。馬鹿馬鹿しい世の中を黙らせるためにこそ、武器の手入れを怠ってはならないのではないか。そんな思いが僕を日々の勉強(10分ぐらいだけど)に向かわせています。
そう遠くない未来に、まずはTOEIC900点突破。そして950点、990点満点とステップアップできれば楽しいんじゃないかな。なんとなく、「楽しさ」を軸とするのがポイント。これじゃあ、現状、僕は900点には及ばないスコアですよと公言しているようなものだが、実際、そうなのだ。言語化できない、自己内の自信を数値化する――紆余曲折を経て僕が辿り着いた結論のひとつである。
英語は「いつかできるようになりますように」と願っているだけでは、で き な い。できるようになるための努力を(知らず知らずのうちにでも)重ねていかないと、モノにはならない。フィーリングやセンスだけで、ある程度まではどうにかなるけれども、「どうにかなる」ことだけが目標なのか、常に自分に問いたいものである。
なんだか、めっちゃカタい内容になってしまったなぁ。次回(たぶん最終回)では、もっとくだけた中身を目指します。最後にひとつだけ。今あなたが学生なら、実用書、ビジネス書、語学書をもっと読むべきだし、社会人なら、思想書、小説、詩歌などに触れるべきだと本気で思っている。時間は有限。実生活のなかで足りないものを積極的な読書によって補いたいものです。