志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学【第3回】

 前回、ようやく入学直後のことに言及できた。今回は1年生に関して言い残したことをまとめておきたい。自分で言うのもナンだが、大学生活の序盤は勤勉だったと思う。2年生の秋頃まで、サークルやクラブに入っておらず、バイトらしいバイトもした記憶がない。基本的に家と大学との往復だったが、人生初の一人暮らしという適度な緊張感が心地よかった。毎日のように大量の課題が出され、観たい映画や読みたい本も無限にある。1日24時間のフル活用が自分の使命だと本気で考えていた。

 あれは入学式の日のことだったか、学科ごとに行なわれた説明会のようなもので、当時の学科長が「ICUではたくさん学んでください。サークルに入る暇なんかありません。今は授業に集中してください」という趣旨のことを言い放った。嫌なことを言う人だなとは思ったが、変なところで真面目な僕はその言葉を額面通りに受け取ってしまったのだ。もったいないことに、1、2年次の英語漬けの日々を軽視する人たちも一定数いる。学生の中からそういう声が出てくるのはまあ自然といえば自然だが、教員にもそんな人がいると知り恐ろしくなったのは、大学院生になってからのお話。大学というのは、実にさまざまな思想が蠢いている場でもあるのだ。

 いかん、話が逸れてしまいそうになった。

 自分は何を学びたいのかを知るために、1、2年生のうちはじっくり流れに身を任せてみようと考えていた。英語で読み、書き、話し、聴くという徹底的な環境の中で批判的思考力が磨かれていくに違いない。ここは一発、ICUのグルーヴに乗ろう。そう決めたのが良かったのか、悪かったのか……。ハタチの頃のこの種の無垢さがその後進むべき道を準備していたのかもしれない、と今となっては思う。

 大学生活にも少し慣れてきた新緑の頃、「リトリート」と呼ばれる1泊2日の研修旅行があった。今はどんなふうに運営されているのか知らないが、当時は学科ごとに行き先が違い、僕の所属する人文科学科は鎌倉だった。首都圏で中高時代を過ごした人にとっては珍しくもなんともないだろうが、関西出身の僕にしてみれば、未知の遠足のメッカ。昼間はグループに分かれての散策、夜は教授陣に専攻のことなど直接質問できる座談会という流れだったのだと思う。

 その宿舎で目にした光景がいまだに忘れられない。多目的ホールのステージに1台のピアノが置いてあって、それを入れ代わり立ち代わり、複数の学生が流麗に弾いていたのだ。流麗というより、饒舌に。楽譜なしで、聴いたことのないクラシックやジャズを。ロビーのソファでは、互いを牽制するかのように、持参した文庫本で読書合戦が繰り広げられている。馬鹿話をする人もいなければ、UNOで遊ぶ者もいない。その文化度の高さ、サロン的な光景を目の当たりにして、「自分はなんてところに来てしまったんだ!」と卒倒しそうになった。

 まあ、彼女たちのこういう行動もある種のハッタリだと数年後に気付くことになるのだが、周囲の学生の内側から滲み出る教養や探求心は本物だと思った。10代の頃までに出会ったことのないような人たちに囲まれて、僕はひどく恐縮かつ歓喜していた。第二志望だったとはいえ、人文科学科という場は自分に合っているという感触を得た。

 すっかりご紹介が遅くなってしまったが、ICUには教養学部という学部が一つ存在するのみ。当時はそこから国際関係学科、語学科、教育学科、理学科、社会科学科、人文科学科の複数の学科に分かれていた。今はアーツ・サイエンス学科なる名称の組織のもとに、よくわからん部門がいろいろと並んでおるようです(雑な紹介)。なかでも人文科学科(通称ヒューマニ)は変人育成機関として名高く、「わたし変わってるってよく言われるのー」などと自称する勘違いさんがたまに出てきたりする。こういう空気だけはどうも苦手だったが、あの種の人たちはその後どんな人生を送っているのだろう?

 話を軌道修正せねば。1年生の夏休みに英語教育プログラムからの呼び出しを受け、秋学期からひとつ上のグループに行くか、そのまま同じレベルのところに留まるか選択せよと迫られた。寝耳に水である。春学期の成績が思いのほか良かったようで、一段階上のグループに行けば、冬学期の英語の授業は免除され、その分、2、3年生が受講するような専門科目をいち早く受講できる。現在のレベルに留まれば、冬学期もみっちり英語の授業を受けることとなり、鍛えられる。さて、どうするか。

 結局、僕はひとつ上のグループで挑戦する決断をした。英語の力を伸ばすという点では、この選択は間違っていたのかもしれない。だが、友達の幅を広げるという意味においては、決して誤りではなかった。ざっくり言うと、上のクラスの学生は現地滞在年数の長い帰国子女が多く、英語力がすでに完成されている印象だった。つまり、”できて当然”なわけで、その輪にいきなり混ざっていくのはけっこうしんどいものがあった。悪く言えば、英語をちょっと舐めているようなところがあり、知的な緊張感を欠いていたのだ。その一方、春学期に在籍していたクラスのほうは頭の切れる人たちばかりで、英語力ではこのクラスに劣るものの、ディスカッションで飛び出す発想などがユニークで非常に勉強になった。なんだか言いたい放題言っているが、本当にそうだったんだから、仕方がない。

 そんな1年次の英語クラスで気づいたのは、自分にはディスカッション・リーダー(司会進行役)の才能があるのかもという点だ。4、5人のグループで話し合ったことをまとめて先生(上司)に報告する。一人ひとりの意見に耳を傾け、より深い考えを引き出す。この経験は今、ミュージシャンへのインタビューに活かされていると痛感する。まあ、この頃はそんな仕事に携わるなんて思いもしなかったけれども。

 ハタチの僕は、暇とも退屈とも無縁だった。今からなら何にでもなれると思った。それぐらい頭がどうかしていた。と同時に、理想的な生活で満ち足りてはいたのだが、なんか物足りないなと感じてもいた。時間だけはたっぷりあると思っていたが、1年生が終わるのは想像以上にあっという間。ほんの少しだけ知的にたくましくなって、僕は2年生になった。