2006年(26歳)あたりの自分の姿を回想している。なんて未熟者なんだろう。学部時代のことを思い出すと甚だ恥ずかしいが、修士課程の終盤ともなると、その恥ずかしさはより生々しいものに。まだまだ若いくせに、何か物事を知った気になって、どんどん世間との折り合いがつかなくなるのだ。この時点で就職という道を選んだ仲間は皆、立派に羽ばたいていった。博士課程に残るということは死を意味し……はしないけれど、極端に職業の選択肢が狭まるのは確かで、相応の覚悟を決める必要がある。
友人から、とある東大教授(表象系)の言葉を紹介された。博士課程への進学はアーティストを志望するようなもので、自分の能力を見極め、運も引き寄せなければならないという。何より、好奇心と粘り強さを絶やすことなく、自分の「好き」を究める道なのだ。うん、納得。僕はこの点、肝が据わっていたつもりだったが、年々、首を傾げることが増え、その首が地面にめり込むほどになっていった。自分は道を見誤ったのだろうか、いやいや、そんなはずはない。目の前のことに真面目に取り組んでいれば、いつか視界が開けると信じていた。
恩師の並木先生は、ちょうど僕が修士課程を修了するタイミングで退職された。これはちょっとした誇りなのだが、僕は先生の最後の弟子の一人なのだ。OB・OGに現役の教職員や学生を交えて、学食でパーティが行われた。なんといっても学食なので、そんなに気合いの入った催し物でもなかろう。少し顔を出すつもりで立ち寄ったのがよくなかった。2年前に学部を卒業した仲間も数人来ており、プチ同窓会の気分。宴もよき頃合いとなったところで、スピーチの時間帯となった。
並木先生の歴代の教え子(各方面で確固たる地位を築いている方々)が思い出話を披露したり、教会関係者や人文科学科の先生方が次々と感謝の言葉を述べる。司会の奥泉光さん(芥川賞受賞作家にして、僕の直系の先輩)が突然、僕の名前を呼んだ。スピーチに指名されたのだ。聞いてねーよ……。なんというか、ICUのある種の人達は「唐突に水を向けられたときの即興性こそ至高」と考えているふしがあって、僕はその種のマインドを激しく嫌悪していた。いや、もちろん、臨機応変に話を組み立てることは大事だが、何もこんな場でそんな試練を与えなくても。しかも、僕以外の方々は何日も前からスピーチを仕込んだ気配があり、なんか知らんが「圧倒的不利」という文言が頭の中を駆け巡った。
それでもめげずに、言葉をひねり出すのが僕のいいところ(?)だと思う。パーティ・スタイルでいつになくシュッとした装いの並木先生(とオーディエンス)に向かい、「こうして先生とご縁のある方々の前でお話しすることに運命的なものを感じます。今までお世話になり、ありがとうございました」的な1、2行の文章を発したのだった。革ジャンにベルボトム、先の尖ったブーツ姿で。完全に浮いていたし、「すべった」空気を肌で感じてしまった。100人ぐらいが集まった場内で、おそらく僕のことを推薦した一団と同級生数名だけが満面の笑みと拍手で迎えてくれた。「いやー! 学生らしくてよかったよ!」ですって。なんのフォローにもなっていませんけどね。
このことがあってから、僕は「段取り」や「仕込み」に対して人一倍敏感になった。即興が即興であるためには、入念な準備が必要なのだ。軽音サークルの舞台で人前に出ることには慣れていたつもりだったが、さらに心臓が強くなった。この心臓は、博士課程という修羅の道が進むにつれて、強度を増していくわけだが。
話を変えよう。そうそう、この時期のメロユニ(軽音サークル)での活動のことを話していなかった。学部時代の後半に、いわゆる「大学デビュー」的な空気を存分に吸わせてもらった青春の場。大学院に進んでも、キーポンロッキンの精神で、この最高の仲間たちとの交流は続いていた。学年の近い友達が次々と巣立っていく一方で、ナウなヤング層との交わりが増えたのはありがたかった。
僕は今でもしみじみ思うのだ。あの時、ああいう選択をしていなければ、出会わなかった人たちがいる、と。修士1年の頃に入ってきた学部の新入生などがまさにそうで、妙に新鮮な気持ちで彼ら彼女らと接したものだった。何をコピーしたかは忘れてしまった(たぶんMR.BIG)が、数カ月前まで高校生だった子たちとバンドを組んで、リハスタ帰りにみんなでマックを食べて、などという経験の得難さ! そのことを想うたびに、胸のあたりがあったかいような、こそばゆいような感情で満たされてゆく。選択ひとつで出会いの幅は劇的に変わる。だからこそ、自分の信じる道を貫かねば。読書や観劇の日々の合間に、若々しい息吹に触れたことは財産だと思っている。自分だって当時は若かったのだが。
修士課程から博士課程に移行する時期に、僕の音楽的嗜好も微妙に変化していった。それまでは主としてハードロック/ヘヴィ・メタルの増強に勤しんでいたのだが、読書のお供としてのプログレやジャズに目覚めた。なるべく、ヴォーカルのないものが望ましい。ロックの名盤を集め尽くすと、大体の人はこうなってしまうものらしい。同時期に、アンビエントにもハマり、APHEX TWINなどを聴いて悦に入っていた。レコファンやディスクユニオンにはアホほどお世話になったが、HMVのポイントカードがえらいことになっていたのもこの頃だったと思う。ああいう購買意欲はある種の熱病のようなものだったな……。もちろん、大きな糧となっているけれども。
メロユニーズとの交流で思い出した。この頃に始めたmixiがそれなりに軌道に乗ったのだ。先輩・後輩の区別なくネット上でやりとりできるツールは、己の文体を鍛える意味でも結構役に立った。まあ、あの限られた空間内(要するに内輪)で「〇〇さん、文才ある~!」みたいに褒め合うのは気色悪いなと思っていたが。今でもアカウントは廃棄せずにいる(絶対に教えません)。
あっ、もうひとつ思い出してしまった。ウイイレにたいそうハマって、生活がおかしくなりかけたのもこの時期だ。ゲームに詳しくない人のために言っておくと、「ワールドサッカーウイニングイレブン」は実によくできた本格サッカーゲームでして、ジーコや中村俊輔のヴィジュアルを前面に出した「10」である種のピークを迎えておったわけです。実在のクラブや選手を操り、チームを成長させていく感覚は、ほとんど唯一無二と言ってよかった。アーセナル時代のアンリが好きだった。僕は敬意をこめて「指サッカー」と呼んでいたのだが、あまりにボタンを押し過ぎて、指に変なタコができたほど。メロユニの友人数人でいったい何夜明かしたことだろう。あれ以来、ゲームには触れていない。ハードはプレステ2どまり。そんな大学院生だった。
こう振り返ってみると、世の中をナメくさっているようだが、いやまさか。楽しいことは物凄く楽しかったけれども、苦しさの苦しさは確実に忍び寄ってきていた。その辺の事情は、次回以降、博士課程編で明らかになるはず?