志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学院【第5回】

 2006年4月、博士課程(正確に言えば、博士後期課程)に進学した。僕は26歳と中途半端な若さ。指導教官は並木先生からツベタナ先生へと引き継がれた。この段階になると、必修の授業というものはないのだが、こまごまと忙しくなってくる。いきなり博士論文の執筆に専念、というわけにはいかないのだ。

 ICUの大学院の特色として、博士論文を提出する前に3本の博士候補資格取得論文(略称、キャンディダシー)を仕上げ、各審査に合格する必要がある。これはアメリカの大学院でよくある方式なのだそうだが、僕の周囲で博士課程を最短の3年で終える人は極めてまれだった。大多数の学生はアシスタントとして働きながら、身分の延長に奔走するのが常。途中、戦略的休学を挟むなどして、最大で10年ぐらいは博論の提出期限を延ばすことができた。

 僕のキャンディダシーのテーマは、大まかに分けるとこんな感じだったように思う。

①日本文化の中の道化について(ツベタナ・クリステワ先生)

②笑いの理論について(青井明先生)

③道化の視覚文化について(リチャード・ウィルソン先生)

日本美術のウィルソン先生には、この段階から指導をお引き受けいただいた。修士課程の東洋の美術の授業で、有益なアドバイスを多く頂戴したというご縁があったのだ。この三本柱を中心に、僕の博士課程は展開していった。

 独立した個としての意識を持たないと、いつまでもICUのぬるま湯につかったままである。本当はこの時点で学会に所属するなどして、外部との回路を築く必要があったのだが、諸事情により実現に至らなかった(そして、大学から離れるまで実現に至らなかった)。文学系の学会はほとんど視野に入れておらず、日本記号学会や発足したての表象文化論学会には関心を持っていたのだが。もし今、20代30代のあなたが「狭い世界に身を置いている」という自覚があるのだったら、外に目を向けてみることを強くお勧めする。たとえ謎の圧力がかかっても、それを振り払って、外へ。

 たしかこの年に、僕は某学会のスタッフの一人として忙殺されたのだ。ICUを会場として開催されたその学会は、なかなかの大規模だったわけだが、僕と敬愛する先輩の二人プラス数人のバイト学生が文字通り右往左往し、なんとか大怪我せずにやり遂げた思い出がある。ムチャクチャな要求をしてくる人がいたり、振込金額を盛大に間違える人がいたり、弁当の体裁にやたらとこだわる人がいたり、変な部外者に荒らされたり……。ああ、思い出すとキリがない! たった1回きりの経験でゴチャゴチャ言うのは下品だとわかってはいるが、この時ほど人間の業というものに触れた出来事はなかった。どんなイベントも、縁の下の力持ちによって支えられている。裏方として支えることの尊さが身に染みてわかった僕は、その後、音楽や演劇の現場スタッフに特別な敬意を抱くようになった。こういうことを若いうちに体験できたのは財産だと思うことにしよう。

 さてさて、研究の話に戻そう。日本文化論。なかでも「笑い」や「パロディ」といったキーワードに絞って研究を進めることになった。特に「道化」や「トリックスター」という概念に新たな解釈を加えたい。

 この頃から「”笑い”を研究しています」と言うと、「あっ、”お笑い”がお好きなんですね」と言われるのが通例となった。このやりとりが非常に面倒で、「笑い=テレビに出ているお笑い芸人」と反射的に結びつける人のなんと多いことか! 僕は今でも、M-1キングオブコントといった日本的「お笑い」の文化周辺に立ち込める空気が苦手で、これらの放映時期に、一億総評論家気取りになる傾向を嫌悪している。要するに、「半可通」というやつですね。ツベタナ先生が『Mr.ビーン』のローワン・アトキンソンを引き合いに出し、僕がテレビのお笑いを作る人(放送作家のことかと思われる)になるべきだ、なりなさい、いや、なる! と勝手に決めつけてきてくるのにも弱った。いまだによくわからんのだが、僕はそういう職業に就きたいと発言したことはない。

 「笑い」は幅の広いものだと考えていた。単に面白いだけでなく、哀しく、カッコいい。ときには、危険な武器にもなり得る。そんな事情を周囲に説明する能力が僕に足りなかっただけなのかもしれない。笑いを支配するようになるということは、権力と露骨に結びつくということでもある。これはまあ、古今東西、さまざまな例を見ればわかることだろう。

 いかん、一瞬、研究者モードになりかけた。文筆家に復帰しよう。

 そんなこんなで、博士課程からは正式にツベタナ先生のTA(ティーチング・アシスタント)の一人になった。学び、仕える刺激的な日々。先生の姿勢から学ぶことは膨大で、「おもてなし」と「(相撲用語でいうところの)かわいがり」の双方を経験した。

 就職組からの「志村はいいよなー。気楽で。俺も大学院とか行ってみたかったわ」みたいな声がぽつぽつと聞こえてきたのもこの頃。先輩ならまだしも、同級生や後輩に言いたい放題言われて、悲しくなった。「なんでそこまで言われなきゃいかんの?」とブチ切れたくなるのをこらえてヘラヘラ笑っていたが、当時の彼らが経験の浅い社会人だったという状況を考慮に入れても、失礼だ。時に人は、自由を求める者、自由を謳歌する者に対してイヤなことを言う。みんな、さまざまな事情を抱えて生きているなあ。まあ、こういうことをネチネチ言ってくる奴とは必然的に疎遠になるのだが。

 そうだ。ツベタナ先生といえば、この時期に、先生の前でQUEENを歌う羽目になったのが鮮明な記憶である。僕と仲の良かったメロユニの後輩(ギター)がツベタナゼミで卒論指導を受け、いよいよ巣立つというタイミングでの企画だった。「We Will Rock You」「Don't Stop Me Now」に加え、先生の熱烈なリクエストにより「I Want It All」を披露した。数あるQUEENの名曲の中でもこの曲がお好きだというのだから、シブいな! と思った(ギター・ソロは派手だが)。なんだか気恥ずかしくもあったが、あれは感動的な体験だった。

 メロユニでも大学院のツベタナゼミでも一緒だった親友(ドラム)の旅立ちを見送る立場になった。彼の大好きなRUSHでヴォーカルを務めた。もちろん、ゲディー・リーみたいにベースを弾きながら歌えるわけがないし、そもそもあんな複雑なベースなんて弾けない。彼は仲良くなりたての頃に「志村くん! U2が好きなんだったら、RUSHも好きだよ!」と意味不明な尺度でRUSHの素晴らしさを語ってくれた人で、その言葉に触発された僕はアルバムをほぼ全て揃えたほどだ。DIZZY MIZZ LIZZYが大好きという互いの共通点もあった。哀愁の共鳴ってやつですね。「The Spirit Of Radio」を歌いながら、「ああ、これが自分にとっても最後のメロユニのライヴになるなあ」と考えたら、泣きそうになった。あのステージ以降、僕はメロユニの表舞台から去っている。大学院生とはいえ、OBみたいな人間があんまりしゃしゃり出てもねぇと思ったのだ。

 ちなみに、この彼はいつの間にか作家デビューしていて、度肝を抜かれた。聞いてないぞ。勝手に宣伝してご迷惑をかけるとアレだから、なんとなく、僕のツイッター(現X)などでお察しください。人生、何がきっかけで、どう変わるかわからないものだ。並木先生の格言「人生は道の逸れ方で決まる」を折に触れ思い出してしまう僕である。

 正直に告白すると、博士課程の最初の2、3年はキャンディダシー執筆とTA仕事のことばかり考えていて、面白い事件がないような。青春の燃えカスみたいなのは、たしかにあった。そんななか、僕はその後の人生を大きく変える決断を下すことになるのだが……。