BALLでアクセルを演じてからしばらくの間、自分が何をどうしていたのか、ほとんど記憶がない。3年生の秋から冬にかけての出来事がすっぽり抜け落ちてしまっているのだ。唯一覚えているのは、学食で食べた生ぬるい鍋焼きうどんにあたって、1週間ほど寝込んでしまったこと。一世一代のパフォーマンスで消耗しきった体へ、ノロウイルス的な何かが入り込んだのだと思う。今なら迷わず病院に行くところだが、あの頃は妙に強がっていて、家のベッドで天井を見上げながらじっとしていた。そんな時間を持つことによって、少し冷静になれた自分がいた。
華麗なロックスター・ライフからは程遠い、のんびりとしたマイライフ。だが、ここに多少なりとも人前に出る自信が加わったのだから、未来は明るいと思った。体力が回復してからは、特に授業をサボることもなく、年数回の学内定期ライヴを軸に、自分の表現能力に磨きをかけていた。とにかく、在学中に多種多様なバンドをコピーしたかった。そのためには、可能な限りさまざまな人と音楽を奏でようと心に決めた。
大学3年から修士2年までの正味4年の活動期間、ヴォーカルでコピーして印象に残っているのは、LED ZEPPELIN、DEEP PURPLE、RAINBOW、OZZY OSBOURNE、HELLOWEEN、YES、RUSH、FOO FIGHTERS、BRYAN ADAMS、WEEZER、EXTREME、VAN HALEN、SEPULTURA、B'z、GLAY、L'Arc~en~Ciel、聖飢魔II、筋肉少女帯など。そんなにジャンル的に偏っていない気がしていたのだが、こうして並べてみると、非常にHR/HM気質の人間だということがわかりますね。しかも、洋楽が多い。 あの頃、なんとしてでもコピーしておけばよかったと後悔しているのは、X、黒夢、SADS、LUNA SEA、スピッツ、SKID ROWなどである。これに加えて、夏合宿限定で相川七瀬「夢見る少女じゃいられない」のベースを弾いていた。ベーシストとしての自分は、なんというか、思想的にも行動的にもパンクの色合いを帯びていたと思う。メロユニ仲間からは、この曲しか弾けない人だと思われていたことだろう。その通りだ。ああ、何もかもが懐かしい。
そういえば、服装が劇的に変化したのもこの頃だ。3年生の秋学期が始まって間もなく、「志村改造計画」を施してくれた友人がいたのだった。「ビフォー」の自分の服装はといえば、マルイのセールで買ったシャツにGAPのジーンズ、NIKEかadidasのスニーカーといった、どこにでもいそうな大学生のいでたちだった。中高の頭髪検査の反動で、髪を伸ばし、染め、パーマをかけたりもしたのだが、肝心の服装が凡庸とのご指摘。なるほど、反論できない。それまで一度も足を踏み入れたことのなかった高円寺のヨーロッパ系古着屋さんに連れて行ってもらい、「改造」を経験した。
そして、「アフター」である。今では考えられないことだが、この企画を皮切りに、僕のファッションは一気に70年代ブリティッシュ・ハード・ロックっぽくなった。花柄シャツにベルボトム、先の尖ったブーツ。往年のロバート・プラントやロジャー・グローヴァーの姿を思い浮かべていただけばよいだろう。まさしく、アレがICUの森を闊歩していたのだ。自分史上もっとも痩せていたからこそできた芸当だったのだと、今となっては思う。そして、周りのみんながおおらかだった。この勇気ある変革はそれなりにインパクト抜群で、メロユニ仲間はゲラゲラ笑ったり、苦笑したりしながらも、ひとつの個性として受け入れてくれたのだ。何事にも「ひと笑い」が大切だと学んだ出来事である。こんな変身体験があったからなのか、人の目つきが変わる瞬間や生きざまが変貌する様子に惹かれるようになった。その後の僕の哲学にも大きな影響を及ぼした出来事である。
こうなったら本能の赴くままに音楽に浸ればよかったのだが、根が真面目なもので、どうしてもロックと学問のバランスを考えてしまう。単純に、両方できたらカッコいいかなとも思っていた。自分は今、何をやるべきか、どういう道に進むのがよいか、悩みは尽きない。お気楽な顔をしているようで、僕は常に何事かを思考しているのだ(なかなか信じてもらえないが)。目の前に広がる、無数の選択肢。大袈裟に言えば、リベラルアーツの功罪のような部分にはまり込んだのがこの時期だった。
早い段階から、大学院に行くことは決めていた。なんとなく、と言ってしまえばそれまでなのだが、僕には学問の道を「行けるところまで進む」義務があると信じていた。
1年次の英語のクラスメイトに「志村は大学院に行く顔してるよな。博士号を取る顔してる」と言ってくれた友人がいた。ああ、そういうもんかなと納得したし、そのことがとても自然のように感じた。就職活動もせず、知的好奇心を育んでキーポンロッケンロール! 人文科学を究める(?)にはもってこいの環境にいるのだから、それを生かさない手はないと思えた。振り返ってみれば、非常に浅はかな考えだが、僕らしいといえば、僕らしい。
大学の先生になりたくて大学院に進む人というのが一定数いる。いや、ほとんどの学生がそうなのだと思う。だが、僕の場合は違った。好奇心の赴くままに突き進んでいった結果としての大学院。モラトリアム期間の延長だと揶揄する人もいるが、そんな奴には言わせておけばいい。こうした進路をとらせてくれた家族には感謝しかないのだが、甘えてばかりはいられない。ありとあらゆる意味でけじめはつけねばならないと思った。自分なりの最短経路で、最大の効果を。そんな決意を胸に秘め、卒論や院試の準備に追われる最終学年に突入するのだった。