志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学【第9回】

 もしタイムマシンがあったなら、この時代からやり直したい。その最有力候補が、大学4年生、23歳である。振り返ってみれば、あの時の選択が生きざまの分岐点となっている。人生をやり直したところで、僕は愚かにも同じ選択をしてしまうのだろうけれども……。2003年4月からの1年間、何があったか、思い出してみたい。

 最高学年ともなると、朝から晩まで大学にべったり、ということもなくなっていた。その程度には、快調に単位を取り終えていたのだ。べつに家にこもって映画を観たりしていてもいいのだが、あの緑麗しいキャンパスから離れるのは寂しいもの。何かと理由を付けては、メロユニの部室を中心に学内に参上していた。

 この年、とても嬉しいことがあった。「彼女いない歴23年」にピリオドを打てたのだ。相手はサークルの後輩で、中途入部してきたキーボードの子だ。春の新入生自己紹介に混ざって、2年生の彼女は恥ずかしそうに、しかし、堂々と「GLAYが好きです……!」と言い放った。周りがレッチリやらRADIOHEADの名前を挙げるなか、そのまっすぐ過ぎる姿勢に心を打たれた。その数カ月前のライヴで、GLAYの「彼女のModern...」を歌って、失笑と喝采を浴びたことを伝えると、大喜びしてくれた。ピュアな彼女はその後、悪い(?)仲間たちに導かれ、スラッシュメタルデスメタルを好むようになる。そして20年後、隣の部屋で修羅と化している。

 とまあ、こんなことはどうでもよくて(どうでもよくないのだが)、卒論執筆と大学院入試がこの年の大きなトピックだ。まず卒論。指導教官はもちろん並木先生である。先生の専門は旧約聖書学なのだが、この分野でがっつり指導を受ける学生はごく少数で、当時の人文科学科の「どこにも属さない/属せない」関心領域を抱いた学生が泣きつく最後の砦が先生だった。卒論提出までに数回発表会があり、あとは個人的に先生に相談しに行く、というスタイルも僕にぴったり。やたらクセが強いだけの人もいたが、聡明な学生が集い、知的な場を形成していた。ICUには3年生からゼミに入るようなならわしがなく、4年生からいきなり卒論指導を受けることになる。「ゼミ」というコミュニティにどうもきな臭さを感じる僕にとっては、好都合だった。

 僕は浪人時にお世話になった駿台表三郎先生からの影響で、バフチンのカーニバル論に関心を抱いていた。笑いをともなった価値転倒のありさまを、見事に言語化した人がいる。そのことにシビれた僕は、それほど迷わずにこのテーマを選んだのだが、あたりを見回しても、博識な並木先生以外に面倒を見てくださる先生はいらっしゃらない(と当時は思っていた)。ロシア語のロの字も知らない僕が、ロシアの文芸批評家の理論を読み漁る日々が続いた(日本語訳で)。こんな選択が可能だったのは、並木先生がヨブ記などの読解に積極的に現代思想のエッセンスを採り入れていたことが大きかった。

 次に院試について。就活なるものを完全にスルーしていた僕は、当面の目標を大学院合格に定めることとなる。なんといっても、ここはICUですから、海外の大学院に挑戦する人も一定数いたりする。ただただ、尊敬である。僕にはそこまでの覚悟はなかった。進学組の大多数は、東大・京大の大学院に進むか、ICUに留まるかといった選択肢になる。実は東大の表象文化論も視野に入れていたのだが、「失礼だけど、君の学力では受かりませんよ、アハハ。(悪いこと言わないから、ICUにしときなさい。)」と並木先生に説得され、このキャンパスライフを延長することに決めた。得難い自然環境から離れたくなかったことも最大の決め手だ。

 これはICUならではなのかもしれないが、留学生や帰国生の受け入れに力を入れている関係で、院試は秋と冬の2回開催される。卒論提出後に受験するのがポピュラーだが、万が一、不合格となった場合の身の振り方が心配だ。ならば、さっさと合格を決めて、卒論に打ち込もう、などと安易に思い描いてしまったのがいけなかった。10月の秋試験を受けることにした。院試で必要になるのは、筆記試験のための勉強、第二外国語、卒論に相当する論文の提出。さらには面接対策が求められる。実はこの面接というのが重要で、合否の9割はここで決まると考えてよい……のだが、僕はこの点を非常に舐めていた。このエピソードは後で詳しく述べよう。

 周囲がどんどん就職先を決めて、晴れ晴れとした表情になっていくなか、院試の勉強を始めた。春先から夏の終わりにかけての数カ月間は、大学図書館で百科事典などとにらめっこしながら、筆記試験対策のノートを作った。今はどうだか知らないが、ICUの大学院比較文化研究科の入試では、たとえば「まれびと」や「脱構築」といった人文科学寄りの専門用語をいくつか説明する論述問題が出題されていた。事前に対策できるのはこの問題ぐらいで、あとは自分の研究したい事柄について小論文のようなことを書いたのだと思う。このノート作りで培った根性が後々の大学院生活で役に立った。誰の力も借りずに、孤独を愛しながら、数百の項目をまとめたのですもの。ちなみに、後年、このノートのおかげで院試に受かった人を少なくとも3人ほど知っている。あまり感謝されていないうえに、みんな偉くなった。どうやら、人生とはこういうものであるようだ?

 第二外国語対策としては、半年ほどアテネ・フランセに通い、フランス語の初級から中級にかけてをおさらいした。わずかな期間ではあったけれども、あの通学は楽しかったので、大学院に入ってからも続けるべきだったと後悔している。三鷹の森は自然に恵まれているものの、文明と隔たりがあって、神田・お茶の水界隈の「都心の大学」とずいぶん趣が違った。通学路に無数に書店、楽器店、レコード店がある明治大学リバティタワーの存在がことのほか羨ましかったのも、この頃。ご飯屋さんも無限にあって、羨望オブ羨望。お茶の水で下車するたびに、ディスクユニオンのメタル館に足繫く通っていましたなぁ。キッチンジローの店構えをみると、今でもセンチな気持ちになってくる。東京の大学を狙っている受験生は、この界隈の雰囲気に早くから染まっておくことをお勧めします。

 こうした勉強を進めながら、「なんちゃって卒論」みたいな論考をでっちあげた。秋試験を受ける場合、当然、卒論は完成していないわけで、草稿とも言えないような中間報告めいた書き物を提出することとなる。あまりに幼稚な、概説書を切り貼りしただけのようなバフチン論だったとは思うが、これが下敷きとなって卒論「バフチンにみるテクスト論の再解釈」に結実したのだから、結果オーライ。

 やるだけのことはやったわけだし、志望学科の先輩は「面接は和やかに進むから、大丈夫」と励ましてくれた。当日の試験にもそれなりの手応えはあった。果たして、面接の際に事件は起こったのだ。「落ちる奴なんていないんだから」などと先輩から「ほぐされて」いたのがよくなかったのだろう。軽音サークルで身につけた舞台度胸はどこへやら、5人の面接官(=教授陣)が並ぶ部屋に入った途端、自分が何を話しているのかよくわからなくなってきた。「まずはご自分の研究について、説明してください」という問いかけに対して、しばし沈黙。「自分の研究!? ここはどこ? 私は誰?」といった具合に完全に混乱してしまった僕は、しどろもどろでバフチンの理論の魅力(この時点ではまだその思想のポイントを把握できていないのに!)を語った。

 僕の緊張を解くために、助け舟を出してくださる先生まで現れる始末。そんなヘルプに対しても、「僕はICUの環境が好きなんです!」とかなんとか、恥ずかしい返答をしてしまったと記憶している。

 その時、それまで黙り込んでいた女性の目がギラリと光った。ギラリなんてもんじゃない。メドゥーサの目だ。これがその後10年間、公私にわたってお世話になるツベタナ・クリステワ先生とのファースト・コンタクトだった……。