志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学【第10回(最終回)】

 「このままだと、イナカモノの論文になりますよ!」剛速球の、大音声だ。面接会場の空気が張り詰める。それまで一言も発していなかった東欧系と思しき女性に日本語で喝破され、僕は硬直した。僕のバフチン理解がいかにお粗末なものであるか、解説書をまとめただけの論考に過ぎないかを指摘され、撃沈。いち学生の骸がそこに転がったのだった。

 当時のツベタナ先生は、ICUに着任して1、2年目だったように思う。要するに、どんな先生なのか、まだ皆よくわかっていなかった状態である。彼女の下で卒論を書くこととなった友人から、オフィスに挨拶に行くと明治ブルガリアヨーグルトが出てきた、なんてミステリアスな話を聞いていた。一体、どんな方なんだ?

 ツベタナ先生は、ブルガリア出身の日本文学研究者で、『とはずがたり』や『枕草子』をブルガリア語に翻訳したことで知られる。専門は「日本古典文学の詩学、日本文化の意味生成過程、文化・文学理論」(インターネット調べ)なのだが、縦にも横にも斜めにも守備範囲が広く、今までICUで出会ったことのないタイプ(意味深)の先生だった。知識が圧倒的なのは言うまでもないが、燃え盛る情熱という点において、僕はこれ以上の人間を知らない。

 ごくまれに「日本語がよくお出来になるんですね~」などとニヤけながら先生に接近する人がいるが、そいつはタブーだ。命の保証はない。あなたの数億倍「日本語ができる」方なのだということをわきまえよう。あと、「クリステワ先生」と他人行儀(?)に姓で呼ぶことも避けたい。

 この時点では、その後約10年に及ぶお付き合いになるとは夢にも思わなかった。喜怒哀楽、さまざまな感情が渦巻く先生との長い長いエピソードは、大学院の博士課程編でお楽しみいただこう。ひとつ補足しておくと、ツベタナ先生の思想に触れる入口として、『心づくしの日本語―和歌で読む古代の思想』(ちくま新書)がある。僕が大学院在籍中に学び、その後も大切にしている教えがふんだんに詰まった名著なので、興味のある方はぜひご一読を。

 話を元に戻そう。初対面かつストレートな物言いの教授に圧倒された僕は、べそをかきながら面接会場を後にした。なんだか人格までも否定されたかのようなショックの受けようだった。これは、落ちたな。めったに着ないスーツに身を包んだままメロユニの部室に行くと、いつもの顔ぶれが「どうだった?」と気にかけてくれた。どうだったも、こうだったも……。浮かない顔で事情を離すと、「ブルガリアの虎に咬まれたね!」と友人が大笑い。そこでようやく、リラックスすることができた。当時、『¥マネーの虎』という深夜のプレゼン番組が人気で、確かにそう言われてみれば、あの面接での攻防はマネーの虎的状況だったのだ。

 帰宅後、実家に電話をかけた。二十歳を超えてからほとんど泣くことなどなかったが、あまりにも絶望的な心境に陥り、「あかんかったわ。圧迫面接やった」と母に向かって、おんおん泣いた。僕は人生の節目節目で泣いてるなぁ。

 後々伝え聞いた話によると、先生は当日の通勤時に渋滞に巻き込まれたか何かで、ことのほかご機嫌斜めだったとのこと。後年、先生のアシスタントとして仕えた立場からすれば、それって”あるある”なのだが、とにかく強烈な第一印象だった。「四万十川料理学校のキャシィ塚本先生」を思い浮かべていただければよい。唯一無二の存在ですね。

 この院試での失敗を糧として、博士課程への進学時や修論、博論の審査ではかなりうまくプレゼンすることができた。これから大学院関係の面接や審査に臨む後輩に言っておきたいことがある。「あなたの研究や論文の内容を簡単に説明してください」は必ず冒頭で問われる事柄だ。ここで淀みなく発話できれば、まず失敗することはない。たとえ意地悪な面接官に当たったとしても、ここでぶれない軸を表明することが大切だと思う。

 なんやかんやで、秋の院試に合格することができていた。並木先生が修士課程でも面倒を見ると名乗り出てくださったことが大きかったようだ。

 卒論のようなものはすでにでっち上げた。ここから最終稿の提出までには3カ月弱ある。余裕をかましたわけではないのだが、気が抜けたのは確か。当時の人文科学科では、原則として英語での卒論執筆が求められていた。例外として、日本文学専攻の場合は日本語での執筆可、といった謎のローカル・ルールもあったわけだが、僕はあいにく旧約聖書学の指導教官のもとで(それとはまったく関係ないことを)執筆していたため、英文。卒論の締切1週間前から、自分の書いた拙い和文をすべて英文に翻訳する辛さといったら! しかも、卒論執筆のクライマックスを迎える年末年始は、手足足先が冷えまくる季節。旧センター試験といい、論文の締切といい、日本の大学はこの時期に一大事を設定することをどうかやめていただきたいと願うほどである。

 もうちょっと早く提出しようと思っていたが、結局、締切日の朝イチに大学構内に駆け込んだ。中身は完成したが、ここで当時のICU名物、和綴じの製本という難関を突破せねばならない。あれはまったく意味のないシステムだったと思うのだが、学生は製本業者などに依頼せずに、自力もしくは友人の協力を得て、タコ糸と針を駆使して、人生で未体験の込み入った手作業をせねばならんのだ、この土壇場に! 僕はまったく手先が器用でないので、職人的に待機していたそこら辺の友人を捕まえて、その作業のほとんどをやってもらったと記憶している。徹夜明けだったため、記憶が朧げだが。今でもタコ糸を見ると、震えがくる。

 まあ、そんなこんながありまして、卒業論文バフチンにみるテクスト概念の拡張とその再評価』(たぶん、こんなタイトル)なる薄っぺらい読み物ができあがった。メロユニの卒業ライヴでは、B'zとANDREW W.K.をやった。まったく意味が分からないセレクションだ。春から社会人になる同級生たちが感動的に送り出されるなか、僕はへらへら突っ立っていた。何かを選ぶことは、何かを捨てること。一般企業への就職という道を捨てたに等しい僕は三鷹の森でまだまだ遊ぶ気まんまんだったのだ。「遊び=学び」ぐらいに開き直っていた。若さゆえの慢心である。

 とはいえ、学部時代の僕は、その時その時でベストを尽くしていた。「ベストな選択」だったかどうかは怪しいが、「ベストな努力」はしたと胸を張って言える。環境に恵まれ、面白い友人を何人も得た。大学4年間では物足りないくらいにリベラルアーツを満喫した。どうかと思うほど、希望に燃えていたのだ。だからこそ、43歳にして中途半端にもがいている今の自分が情けないっ。

 次回から、新連載「僕と大学院」が始まります。大学編が『ドラゴンボール』だとすれば、大学院編は『ドラゴンボールZ』だ。というわけで、もうちっとだけ続くんじゃ。