志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学院【第1回】

 しばらく大学院時代のことを振り返ろうと思う。博士後期課程を修了したのが2014年の3月なので、ここから休学等を挟みつつ、約10年間も大学院に身を置いた計算になる。思えば、長く曲がりくねった道のりだった。その「幕開け」の部分が今回の記事というわけだ。

 ここ数週間、大学院に入学したての頃を思い出しているのだが、特に面白い出来事はないっ……。いやいや、実際はそんなことはなかったと思うけれども、学部時代ののほほんと刺激的な毎日に比べれば、実務的場面が多く、バラエティに富んだ現実を知ることとなったのだ。たいして大きな理想は掲げていなかったが、なるほど、大学院とはこんな場所なのかと妙に冷静になっていた気がする。そして、人間誰しも、同じ場所に長い期間留まれば、見たくもないもの、聞きたくもないことに触れる場面が増えてしまうものなのだ。

 2004年3月に国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業。同年4月に国際基督教大学大学院比較文化研究科比較文化専攻博士前期課程に入学した。修士1年生の始まりである。ICU名物の桜が咲き、散り、新緑の気配がする時期に、僕は新たな緊張感を持ってこのキャンパスと一体化した。

 「大学院って、どんな場所なの?」とよく聞かれるのだが、ICUの場合、学部と独立した建物があるわけではなく、基本的に生活圏は同じ。ただし、教授陣のオフィス周辺の部屋に参上する機会が増える、という程度のものだった。

 一応、入学式もあるのだ。初々しい学部1年生たち、つまりは4年前の自分の姿を式場の隅から見守るのは変な気分だった。式が終わってすぐに、入試の面接で強烈な印象を残したブルガリアの虎……じゃなかった、ツベタナ先生にご挨拶に伺った。関心領域が僕と重なり、お世話になる機会も多いだろうから、あらためて自己紹介しておいたほうがよかろう。スーツ姿のままだったのが功を奏したのか、「面接のこと覚えてますよ! バツグンに賢い人だと思った!」と極端な好印象を持たれ、困惑した。まあ、この種の誇張(≒時空の捻じ曲げ)は先生の話術の一環だと後々わかるのだけれども……。とにかく、節目節目でちゃんと挨拶をしておくのは、お互いにとって気持ちの良いことである。

 たまに「大学院とは病院みたいなものですな。私も夢中でやりたいことをやっているうちに『入院』してしまいました。ワハハ」みたいなことを言う先生に出くわすことがあった。すごく品のない言葉だなぁ。学部時代には気付かなかったけれど、いろんな教授がいるものだと知った。僕が幸福だったのは、この種のつまらない教員とほとんど縁がなかったことだ。

 入学して即、修士論文の指導が始まるわけではない。約1年かけて、演習形式の必須科目をいくつか取らなければいけないのだ。これが地味に大変で、「リベラルアーツ大学における大学院のあり方とは何ぞや?」と常に疑問を持ちながら格闘する羽目になった。まあ、知的に鍛えられたとも言う。授業といっても、4,5人の院生がセミナールーム(のようなもの)に集まり、その道の専門家たる教授と講読や議論を重ねることが主だった。思えば、贅沢な時間を過ごしたものだ。何ひとつ内容を覚えてはいないのだが、それらの知的エッセンスは自分の血肉と化していると信じたい。

 そもそも、自分は何を専攻とすべきなのか、この段階でも確定していなかった。学部時代に自由を謳歌したあまり、「私は●●学を研究しております!」と胸を張って言えるような分野がなかったのである。こういう学生はリベラルアーツ系の大学に意外と多いのではなかろうか。とあるフランス人の先生は「『比較文化』でいいんじゃないですか?」とおっしゃってくださったが、うーん、それだと扱う範囲が広すぎて、ここ日本では説得力に欠けるんですよね。「君にヒントをあげよう。日本文学をやりなさい」と例の悪夢の面接中に提案してくださった先生もいた。いや、そういうことじゃないんですよね。日本文学みたいに枠組みを固定して学びたくはないんですよね(と、その頃の僕は本気で考えていた。しなやかな日本文学よ、ごめんなさい)。

 困った。こんなときこそ並木先生だ。当時、先生はご自身のプロフィールの「専門」欄に「旧約聖書学」に加えて「文化創造」と書かれていることがあった。この響きがなんだかしっくりきたのである。そうだ、僕が進むべき道は「文化創造」なのだ。広いヴィジョンで物事を捉えるのが自分は得意なのだ、と若さゆえの健全な勘違いをして現在に至る。

 その後、僕は博士課程でがっつり「日本文学」と関わることになるのだけれど、この修士課程の段階では、記号論や文学理論を学んで、何かしらを批評するというスタンスでやっていこうと決めた。ただし、その「何かしら」を定めることが難儀なのである。要するに、一次資料を何にすればよいのか、わからない。学部の時点では大抵のことに目をつぶってもらえるものだが、修士論文を書くにあたって、より具体的な題材をセレクトし、分析の精度を高める努力が必要となる。うーん、弱った。

 そもそも僕は、卒論の執筆を通して、バフチンの思想のエッセンスに触れる機会を得ていた。さらに、その周辺の読書によって、山口昌男という超絶に面白い語り手の存在を知ってしまった。ここから何かヒントを導くことはできないだろうか。特に、彼が声を大にして紹介する「道化」という視点がとても気に入った。この概念と絡めて、何事かを論じられれば最高だ。僕に何かヒントを! 題材を!

 足繁く並木先生のオフィスに通ううちに、ぽつりと「狂言を観てみたら?」と言われた。えっ! 先生、そんなの無理です。20年とちょっと生きてきて、狂言などという舞台芸術にはまったく関心がなかったのですから。そんな思いを胸に秘めつつ、百聞は一見に如かず。国立能楽堂に赴き、生まれて初めて狂言を観た。なるほど、狂言には太郎冠者という道化的な振る舞いをする人物が付き物だ。ここに焦点を絞れば、自分が論じたかったことのカケラのようなものを見出せるかもしれない。狂言を観るのであれば、当然、能も観なければならない。歌舞伎も、落語も、漫才も。できれば周辺の演劇も。

 というわけで、この2003年の夏から博士号を取得するまでの約10年間、僕は毎週のように狂言をはじめとする舞台芸術(特に笑いを伴うもの)を観るようになった。それまでまったく観劇の習慣のなかった若者が相応の時間とお金をかけて未知なるものを吸収していったのだ。結果として、演劇専攻の学生などとは一風異なる感性を磨くことができたように思う。また、こうした新習慣にかこつけてハード・ロックヘヴィ・メタルのライヴによく出かけるようになったことも、その後の人生に大きな影響を及ぼしている。

 夏の終わりに、並木先生のゼミ合宿(ここでは便宜上「ゼミ」の語を使うことにする)で、狂言の笑いに関する発表を行った。優れた知性を持ったOBに褒められたのをきっかけに、僕は勢いづいた。あの頃の自分は、右も左もわからないどころか、今どこに立っているのかも把握できていない未熟者だったと思う。好奇心だけは一丁前の、武器も経験も持たない若造に優しく声をかけてくださる人が何人もいた。とりわけ、「とにかく、たくさん観なさい」の並木先生の声には励まされたものだ。先生は狂言の専門家というわけではないが、そんな彼の直感だからこそ信じたほうがいい。年の離れた優秀な先輩はそうアドバイスしてくれた。ついでに言えば、大学院以降のアカデミックな世界では、「お作法」が大事なのだ、とも。一見バカバカしく思えるような形式やプロセスこそ、真面目に取り組む必要がある。なるほどなぁ。

 むやみに感心しているうちに、修士1年目の半分以上が過ぎてしまった。またしても、就活か進学かといった現実的な二択が目の前に突き付けられてくる。たいして本も読まないうちに、残酷に時計の針は進んでいく。自分の圧倒的な実力のなさに呆れつつも、「とにかく、たくさん観る」の精神を貫く旅が始まった。