8月ももう折り返し地点。真夏の1、2週間なんて「刹那」である。そのことをおじさんは痛感中なのだが、大学院生という身分も一瞬の出来事だったなぁと今さらながら感じ入る。
4000字ほど書いた下書きが消滅してしまった。めったにこういう失敗はしないタイプなのだけれど、いよいよ「加齢」の二文字がちらついてきた。今回は、修士1年の後半から修士2年に上がる頃を無理矢理振り返ってみよう。当時は「おれも歳をとったものだな……」なんて虚空を見つめたりしていたものだが、いやいや、何を言うとるの。今の自分に比べれば、遥かに若く、無防備で、無限の可能性に満ちていた。そう、修士課程の学生なんて、果てしなく幼稚な存在なのだ。
それはともかく、修士論文の題材を狂言に定めた僕は、学割などのあらゆる割引手段を駆使して、国立能楽堂の定期公演を中心に、野村萬斎や茂山家のような有名どころが出演する公演を片っ端から観るようになった。狂言という芸能は初めて観る人にとって非常に易しいつくりになっていて、せりふの掛け合いが単純なのである。現代人でもスッと世界に入っていきやすいという利点がある。指導教官の並木先生はそこがよき糸口となると見越して、ボンクラな僕を鼓舞してくださったのだと思う。
狂言は通例、能とセットで上演されるのだが、市民ホールなどで狂言のみを観ることができる公演も多数あり、僕はそうした機会をたくさん利用した。大学院にいた10年間限定とはいえ、この経験はその後の僕の持ち味となった。
今でこそ狂言の笑いのエッセンスは広く知られているけれども、2000年代の初頭にあって、狂言という芸能は勘違いされがちだったように思う。『にほんごであそぼ』の「ややこしや」も、お笑い芸人のすゑひろがりずも出てきていなかった時代のことだから、無理もなかろう。特に、能との区別ができていない人が多く、僕は自分の研究を説明するたびに、モヤモヤを抱えることとなった。文学に詳しい友人も能と狂言を混同していて、けっこう絶望したものである。昨日今日フィールドワークを始めたばかりの自分が言うのもナンだが、実際に一度観てみれば、どんな雰囲気のものなのかわかるのに、みんな、それをしない。ことに古典芸能となると、かたくなに観に行かないのだ。「お金を払って(まで)観る」という行為に納得がいかない模様だった。これはロック・コンサートにも当てはまることで、文化に敬意(とお金)を払わない人たちのことを僕はいまだに軽蔑している。
いかん、気が緩むと言葉が汚くなってしまう。
芸能というものは「たくさん観る」うちに勘所がわかってくるもので、青二才の僕もそれなりの感想を持つようになってきた。狂言は非常にとっつきやすかったが、能はひたすら眠かった。ただし、モノの本によれば、良い能というのは眠くなるものだそうで、これはつまり、幽玄の美を自分なりに感じ取っていたということなのだろう。何度、あちら側の世界に堕ちたか数えきれないほどである。ある時から、能は音楽的に楽しもうと割り切るようになり、そこから視界が開けたのを覚えている。PINK FLOYDやRADIOHEADにも似た宇宙が広がっていると思えば、ありがたさが増してくる。
何よりよかったのは、文献に向き合うだけでなく、フィールドワーク的に「演劇の発生する場」に出かけ、場内に立ち込める空気を吸収できた点だ。こうした体験を重ねてきたからなのか、「現場で目撃すること以上に尊いものはない」と錯覚するきらいが今でもある。観客の笑い声と演者のグルーヴがある種の調和をみせる時、言葉では表せないような磁場が生まれるのだ。「道化」という主軸を磨きつつ、「観客参加論」という視点をも育めたのは、大学院時代の収穫だと断言できる。
相変わらずCD店(中古・新品問わず)を冷やかす習慣は消えなかったが、ここに古書店通いが加わった。学部時代はたいして本の買い方をわかっていなかったが、「研究のため」という口実を作り、中央線沿線の古書店を次々に散策していくようになったのがこの頃。自分の足を使って手に入れた書物にはかなり愛着が湧くもので、いったい何百冊の本を20代のうちに仕入れたことかわからない(何千冊、までは行かないと思います)。
大学院生といえば、コーヒーだ。あの香りを嗅げば、自然と頭がシャキッとなる。吉祥寺周辺のカフェに出かけ、文庫本を読む時間を大切にした。実は大学構内で学べることなど限られていて、教授陣や研究仲間には、自分で学ぶためのほんのわずかな道筋をつけてもらったようなものと考えていた。そして、この気づきは正しかったと今でも思う。自分が興味を持った分野であれば、僕は一生独学できる自信がある(その精度や奥深さは別として)。
そういえば、大学院生活でどんな人たちが周りにいたかをあまり語っていなかった。まったくもって波長の合わない人も何人かいたが、同学年、先輩、後輩には恵まれていたと思う。陰湿ないじめもなかった。単に気付いていなかっただけかもしれないが。僕の入学年度には、比較文化研究科の修士課程に10人に迫る勢いの新入生が入ったと記憶している。これは当時としては過去最大規模の人数で、だいたい毎年5、6人も入ればいいところへ、好奇心旺盛、かつ、まっとうな学生が集まった。
修士1年の終わりごろ、ごくごく限られた内輪でのカント『道徳形而上学原論』(岩波文庫)読書会のお誘いを受けた。信頼すべき友人が東京女子大から数人の哲学科の学生を連れてきてくれて、その方々と意見交換するなど「なんだか学生らしい」活動を行ったのだった。カントも哲学も僕の専門ではないけれど、本質的なことが書かれた本を自分とは異なる視点を交えて分析するのは楽しいもの。ただし、読書会には罠があって、フンフンうなずき合っているだけの会ならば、いっそ一人で読み進めたほうがいいということも学んだ。この打ち上げの席で20コぐらい年上の女性から「志村くんはスウィートだと思う!」と言われ、ハハハと乾いた笑いを発した記憶がある。あれは何だったのか。こういうどうでもいいことばかり覚えている。釜飯が出てくる居酒屋だった。
本やCDを買い漁ると、たたでさえ無いお金がほぼゼロとなる。働かないといけないのは山々だが、院生には読書のための時間が必要だ。これまた友人の紹介で、僕は学内図書館のカウンター業務のバイトを始めた。カウンター業務といっても、司書のようなことをやるわけではなく、自動化書庫から出てきた本のバーコードを読み取って、利用者のために棚に並べていくという仕事が中心。その他、道案内をしたり、プリンターの紙を補充したり、わけのわからん教員に怒られたりと、なかなか貴重な時間を過ごした。特にやることがない時は本を読んでいてもよかったので、これが非常に助かった。「世界一暇な仕事」と友人から揶揄されたときはブチ切れそうになったが、まあ、こんなことでお金をいただけるのだから甘いもんだよなぁ。学生っていいなぁ、というお話。
研究(というか観劇)にはまだまだお金が要る。ICU関係者は、僕が長らくツベタナ先生のアシスタント(≒しもべ)を務めていたと認識しているようだが、それは正しくない。僕がTA(ティーチング・アシスタント)に就いたのは博士課程の1年目か2年目だったと記憶している。修士2年の後半あたりに、ようやく「副手」なる謎の役職を与えられたのだと思う。非常勤講師室でスペイン語・韓国語・ロシア語の先生の到着を待ち、教材の指定範囲をコピーするお仕事。これは楽しかった。何より、講師室に常駐するご婦人二人がとても心配りのできる方々で、「ああ、こういう優しいスタッフの存在によって皆は支えられているのだな」と毎度感服した。彼女たちの振る舞いによって、若造の僕は「下働き」というものを舐めずに済んだのである。