朝起きてから1、2時間以内のフレッシュな脳味噌で書き物をしたい。長年そう願いながらも、一年に数回しかそんな状況を生み出せずにいる。ならば仕方がない。絶えず、読む。絶えず、書く。せめて心がけだけでもそうあらねば。こんなふうに考え始めたのは、修士2年の頃だったと思う。
狂言の観覧が徐々に定着したのはよいことだが、それを支える知識が圧倒的に足りない。伝統芸能に関する基礎的な文献に目を通すだけでも、残酷に時間は過ぎてゆく。そのうえ、主軸とすべき「道化」や「笑い」といった概念もまだまだ勉強不足。関心が広がるのは素晴らしいけれども、いったい何をどこまで学べばよいのやら、日々焦っていた。
ICUは3学期制で、9月の頭から秋学期が開始となる。留学生・帰国生といった新入生を迎えていよいよ「フル・メンバー」となった大学構内は、活気に満ちる一方で、夏の終わりの寂しさを引きずった人々がゾンビのように彷徨う場所と化す。目に一定の輝きはあるが、なんとなく体が重いゾンビ。僕のことである。
大学から離れて10年が経ち、ようやく克服できた感があるのだが、僕は夏休みとのお別れがことのほか苦手なのだ。秋学期の履修登録日が近づくにつれ、下宿のベッドで涙目でのたうちまわるような性格だった。これは三鷹や小金井の豊かな自然風景とも関わりがある。あの地域は、お盆を過ぎた頃から風の匂いや虫の声が一変する。スーパーに行けば秋仕様の缶ビールなど陳列されている。こうなると、もうダメ。僕はしばらくの間、思考停止に陥ってしまうのだった。
そんななか、学部時代と比べて少し成長を感じたのは、自分なりの本の読み方を身につけ始めたことだ。この頃から、手帳に簡単な読書記録を付けるようになり、これは今でも続く大事な習慣となった。「読むべき本に出会うために濫読しなさい」と村上陽一郎先生(当時のICUの代表的知識人の一人)が学報か何かに書かれていたのを目にして、真に受けたのがよかった。
試行錯誤の末、同時に3冊読み進めていく技術を手に入れた。1冊でも2冊でもダメ。4冊以上はムリムリ。3冊並行して、というのが僕にとっての丁度よい塩梅なのだ。①小説・エッセイ・詩歌などの創作系、②文学理論などの思想系、③ジャンル問わず好きなもの、というふうに3本の柱をイメージしての読書。これで月に10から15冊(雑誌は除く)といったところか。人によっては1日1冊あるいは2冊の本を読んだりするらしいが、僕にはそんな量産体制が築けなかった。当時40代くらいの非常勤講師が「あなたたちが若いうちにどれだけ頑張って読んでも、たかだか3000冊ぐらいのものです。人類の知の蓄積の前ではなす術もありません」と言い放ち、結構な衝撃だったのだが、今なら納得する。そうだよなぁ。人生で読める本、特に若いうちに吸収できる本なんて限られている。ここでも効率の良い時間の使い方が鍵になってくる。
何はともあれ、修論のテーマは「太郎冠者考ー日本文化の中の道化について」に固まった。狂言の主要なキャラクターである太郎冠者に注目し、彼がふりまくクスクス笑いやガス抜きの効果に焦点を当てて論じたもの。主従関係の価値転倒がキーワードで……と今なら客観的に振り返ることができるが、修論の時点での僕の論考は「卒論に毛の生えたようなもの」だったと思う。「道化のような人が道化の研究をしているね。アハハ」と並木先生は常々おっしゃっていて、その励まし(?)をずっと大切にしている。
卒論と違って、日本語で書いてもよい(!)テーマだったので、少しは増量できた。とはいえ、周りはぶ厚い論考を提出する猛者ぞろいだったので、なんだか気後れするところもあった。えーい、大事なのは中身だ。僕は幼少の頃から、他の人が一頁かけて論じるところを一行でズバッと言う性格なのだ。開き直りの能力を習得したのも、この頃かもしれない。
ICU名物のセルフ製本(和綴じ)だが、卒論の時とは違って、さすがに余裕をもって……とはいかない。結局、執筆は締め切りギリギリまでかかってしまう。最後の3日間はほとんど寝ておらず、大量の眠眠打破が下宿の床に転がった。こういう体たらくは二度といたしませぬと心に誓った。物書きになってから気付いたことだが、よくできる人ほど、余裕をもって提出物を完成させる。締め切りギリギリ、あるいは締め切りを過ぎることをよしとする人は、何をやらせてもダメだと断言できる。
そういえば、博士課程の願書の締め切りが修論のそれと重なっていて、死にそうだったことを覚えている。志望動機や研究計画など、かなり面倒な手書きの書類を半日で準備する必要があり、文字通り、命を削って書いた。こういう苦しい光景ほど、やけに鮮明に蘇る。
修論の審査は、主査が並木先生、副査にツベタナ先生と青井明先生を迎えた3名で行われた。ツベタナ先生には、この修士課程の2年間で、公私にわたり僕のキャラクターを見抜かれていた。つまりは何の心配もない状態。フランス語学の青井先生とはこの時が「はじめまして」だったのだが、こちらが恐縮するくらい丁寧に論文を読んでいただいて、建設的な意見を多く頂戴した。「リメンバー・院試の面接」を合言葉にしたのがよかったのだろう。適度な緊張感のなか、和やかに審査にパスできたのは誇りである(課題は山積みだったが)。
その後、博士課程進学のための院試、つまりは面接も受けたはずだが、不思議なことにこっちのほうはほとんど記憶にない。とにかくたくさん観る、とにかくたくさん観る……。呪文のように念じながら、僕は引き続き伝統芸能の観劇を中心とした大学院生活を送ることとなった。自分で選んだ道だもの、覚悟を決めないとね。周りの友人にはそんなふうに告げていた。たいした実力はないが、怖いもの知らずだった。無知だった。この時期にあまりにも戦略を欠いていたため、後々苦労することになるのだが。
これはICUの良くないところなのだけれど、立地的に陸の孤島であるうえに、学生の個人プレイが尊重されているものだから、いつまで経っても外部との繋がりを確保できない。今は知らんが、外部の学会や研究会に属さず、ぽやーんと大学院生活を送っている人がほとんどだった。僕のその一人。そして、このミスは博士課程に入っても尾を引いた。
青春とは選択を間違えてばかりの時代なのかもしれない。「自分にはこれしかない」と思って進んだ道が激しく見当はずれという可能性はおおいにある。僕は特別な賢さも要領のよさも持たない人間である。愚直に這いつくばって前進するしかなかった。ただし、好奇心のアンテナは常に張っておきながら。
目の前のことを懸命にやり抜くだけで20代の前半は終わってしまった。あっ、並木先生のご退職パーティの話やら、この時期のメロユニとの付き合い方のことを書くのを忘れていた。次回はこのあたりの話題から。