志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学院【第8回】

 震災のどさくさに紛れて、世の中、さまざまな出鱈目がまかり通るようになった。ここで腐っていてはしょうもないので、心を気高く保つことだけは忘れないようにした。2012年、僕は32歳になっていた。博士課程ではたっぷりと時間を使うと決めていたが、さすがにゴールを意識しないといけない。2014年の3月に晴れて学位授与式(=卒業式)を迎える自分の姿をイメージしてみた。焦る。
 公にできないことは多いのだが、この頃、TA業務のあり方や大学行政について考えさせられる事件が頻発し、疲労が積み重なっていた。震災後、誰もが興奮あるいは虚脱した時期ではあったのだけれど、そんな最低な時でも、「声の大きい人」が勝つようになっている。僕は、そのことが情けなく、悔しい思いを抱いていた。
 仕事仲間であり、絶大な信頼を寄せていた院生の先輩が大学から去ることになった。震災がらみのご実家の都合で、とのことなのだが、現実はあまりに残酷だ。公私にわたりお世話になり、僕の思想に少なからぬ影響を与えてくれた恩人なので、喪失感は大きい。何より、彼におんぶにだっこだった諸業務を引き継がないといけない。会社ではこんなこと日常茶飯事なのだろうが、大学は大学でややこしい組織なのだ。僕の緊張は最高潮に達した。
 彼は完璧に物事を処理する人だったので、問題が表面化する前に、何事もなかったかのような景色が広がっている。僕にそんな芸当は出来っこない。自分にできる範囲のことだけをやろう。問題があるなら、表面化してしまえばいい、ぐらいの気持ちで。誇張抜きにして、2012年のあの時から今日まで彼のことを考えなかった日はない。お互いの状況に配慮しすぎたせいなのか、やがて連絡は途絶え、自然と疎遠になってしまった。今、どうされているのだろう。人付き合いにおいて、僕はこの手のパターンが多いな……。
 頭が冴えて優しい人ほど大学を離れていく傾向があって、やるせない。急にこんな状況に陥った人を、どうにか救済する手立てはないものか。今の自分は無力だけれど、将来、自分が活躍することによって、何らかの形で「巻き込んで」いけるのではないか。思い返せばおこがましい発想だが、僕はわりと真剣にそういうことを考えていて、自分の行動指針とした。一寸先は闇。やりたいことは今のうちにやっておかねば。
 自然環境的には居心地のよいキャンパスだったけれど、内部事情を知れば知るほど、なんだか窮屈になってくる。某先生からの教えなのだが、ある意味、意地悪でないと大学では生き残れない。信じられないことに、廊下で挨拶してもフフンと無視する教授もいた。彼はわが上司の敵対勢力だったのだろう。すごく幼稚だなと感心した。結局、大学って、学問ではなく政治をやっているのだ。ICUを理想化しすぎてはいけない。愛した学び舎からついに離れるイメージを持ち始めた。とにかく、ここから出よう。
 奉公にしろ、研究にしろ、「頑張ったら頑張った分だけ返ってくる」という認識は大間違い。私見では、小ズルい奴ほど上手に立ち回り、生き延びる。そこまでして手に入れたい地位や称号って、なんなんだ?  今より血気盛んな僕には、清く正しく美しく、魂を解放する場が必要だった。
 油断すると絶望的な気持ちになるなか、前に向かって歩いていけたのは、新たな出会いの数々のおかげだ。この時期、大学の外での交流が活発化し始めた。今や殺伐としているTwitter(現X)は大変のどかなものだった。文章の面白い人や情報を的確に発信できる人など、「この人はすごくいいな!」と思える書き手に溢れていて、夢中になった。
 Twitterの「1投稿あたり140字まで」という制約は僕にとって非常にありがたいもので、日々思い浮かんだことを発信するのに最適なサイズ。依存とまでは行かないが、事あるごとに短文を投稿して悦に入っていた。当然、自分の文章がリツイートされたり「いいね」を得ると、嬉しくもなる。論文書きとは孤独な戦い。博論のアイデアが停滞気味だった僕にとって、Twitterは偉大なツールだった。
 要するに、自分は誰かに認めてもらいたかったのだ。評価を得ることは自信につながる。ここはひとつ、この欲望に忠実になろう。生まれて初めて、自らの意思で創作を開始した。
 本当は小説を書いてみたかったが、名作群を読めば読むほど、どうやって書き始めればよいのかわからなくなる。そこで僕はまず、詩に目を付けた。詩なら、短くて済む。スキマ時間を活用できる。曲がりなりにも、軽音サークルでバンドを組んだことのあるヴォーカルだ。作詞家デビューで印税ガッポガッポ! 「おれは中島みゆきだ! 草野正宗だ! 大槻ケンヂだ!」くらいの意気込みで、原稿用紙に何事かを綴った。よせばいいのに『現代詩手帖』に数作を投稿し、あえなく撃沈した。選者に遠回しにペンネームを非難されるというオマケ付きだった。だが、こんなことで折れるような心ではない。僕は短歌のリズムに興味を持ち、『短歌研究』と『角川短歌』の公募欄に毎月投稿するようになった。すると、面白いように作品が採用されていく。特選とまではいかないが、自分には佳作を連発する能力があると知った。「ああ、生きていていいんだ」と思った(死ぬ気はなかったが)。この投稿の習慣は今も続けていて、短歌歴は10年以上になった。いまだに必殺の名作は生まれていないが、継続することに意義があると思っている。
 同時期に、俳句にも手を出した。以前から歳時記という書物には大きな関心を持っていて、今こそ実践のタイミングと考えたのだ。こちらも専門誌に少し投稿したことがあり、一応の評価を得た。作っていくうちに、どちらかといえば、俳句(五七五)より、短歌(五七五七七)の文字数のほうが性に合っているように思えた。俳句のスピード感とミニマルな魅力に気づくのはしばらく後のこと。僕は己の魂を穏やかに保つため、当面は短歌という枠組みを頼るようになった。
 何かを作り、発信すれば、会いたい人、会うべき人と会えるようになっている。僕の30代の行動原理がここに芽生えた。言葉を尽くそう。世界は意外と狭いかもしれない。博士課程終盤の憂鬱な日々に希望の光が射しこんだ気がした。

 こうした活動は大学での自分と切り離して考えたかったので、ペンネームを用いるようになった。当初はTwitterのハンドルネームでもあった「S村月音」名義で活動。「S村」は「シムラ」でも「エスムラ」でも、何とでも読んでください、という投げやりな態度。「月音」と書いて「つくね」と読むのは、僕の発明ではなく、その頃ハマッていたアニメ『ロザリオとバンパイア』の男主人公の名前だ。ちょっとエッチなラブコメディの明るさにあやかりたかったんだと思う。いまだによく尋ねられるのだが、べつに「つくね」が大好物というわけではない。焼き鳥屋さんでは、断然「ささみ」派で……って話はどこかでした気がする。

 そんな院生生活の末期、僕は近所で枡野書店なる不思議な空間を見つけてしまった。店主の枡野浩一さんのこと、本当に何も知らなくて、その「何も知らなさ」が良かったのだと今でも思う。初対面の枡野さんにペンネームを(柔らかく)批判され、素直に受け入れていなかったら、「志村つくね」は誕生していなかったに違いない、というお話など、次回、乞うご期待。