志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学院【第7回】

 阿佐ケ谷での新婚生活が始まった。妻は勤め人だったので、帰宅の早い、学生の僕が基本的に夕飯担当となる。一人暮らしが長かったとはいえ、カレーやスープぐらいしか料理のバリエーションがない。ヴィレヴァンで陳列されているような、男子厨房に入る系のレシピ集など買い込んで、必死に勉強した。揚げ物とか、手の込んだものはまったく作れないが、それなりにレパートリーが増えていくのは楽しかった。ネットで見つけた「麻婆大根」(茄子でも豆腐でもない)のレシピは、我が家自慢の逸品として定着。ぶつ切りのタコとミニトマトに塩を振り、オリーブオイルで炒めるなど、ちょこざいな料理をこしらえたりもした。1000円で買えるワインの味を覚えたのもこの頃である。あと、イカをさばくのが妙に巧くなったことは強調しておきたい。身から皮を剥がすのではなく、皮から身を剥がすイメージ。
 大学院生としてのミッションを終えた後に家事をやるのは、正直、骨が折れたけれども、そこは新婚だもの。明るい未来だけが広がっていると信じて、懸命に毎日を生きた。苦労すらも喜びだと思っていた。若すぎたんだろうな。

 阿佐ケ谷は都心にも郊外にもアクセス便利で、適度に文化の薫りが立ち込めている点が楽しい。ろくに開拓していないが、お酒や食べ物の美味しい店多数。さらには、おもしろイベントスペース、阿佐ケ谷ロフトまである。おかげで、芸人、アイドル、ミュージシャンを街中でよく見かけてテンションが上がった。高円寺・中野に次いで、野望を胸に秘めた若輩者が勘違いしやすい土地なのだ。一時期の僕は、家が近所なのと笑いの研究者なのをいいことに、ちょくちょくこの店に遊びに行っていた。観客参加型の「ふせん大喜利」とか、めちゃくちゃ笑った記憶があるんだが、今でも開催されているんでしょうか。「下世話」にこそ、真理は宿る。

 こうしたトークイベントは、くだらないように見えても気付きが多いもの。いつしか僕は「あの壇上で好きなことを喋れたら楽しいだろうなぁ」と夢想するようになった。そして、そのささやかな願いは、数年後にロフト系列の他店舗で叶うことになるのだから、なんでも念じてみるもんだ。(今でも、大槻ケンヂさんの「のほほん学校」への出演を夢見ていたりする。)

 イベントといえば、現ゲンロン、コンテクチュアズ友の会にも会費を払って参加していた時期がある。これは批評家・作家の東浩紀が中心となって立ち上げた文化的集いで、現役の学生なら、少し浮き足立つような魅力的コンテンツや文化人で固めた「場」だった。知的な要素を掲げたこの種の空間の出現は、10年ほど前、とても画期的なことのように思えた。そもそも「コンテンツ」なるカタカナ語を僕は嫌悪していたわけだが、その後、現在に至るまで、この語はしぶとく生き残っている。世の中よくわからない。

 ずっとICUにいると、居心地が良くて、外界との接点がほとんど断たれてしまう。注意してはいたものの、僕もそういう傾向に陥っていた。ただでさえ外部の学会や研究会に参加していない僕にとっての「外」。そんな思いで、ある種の刺激を求めていたのだろう。ゲンロンカフェのいくつかのトークイベントに行き、「総会」と呼ばれるオフ会的な催しも覗いたのだが、うーん。壇上の有名人同士は盛り上がっているが、聴衆(というか僕)は置いてけぼりを食らっているように感じた。結局、思うところあって、発足初年度から2,3年で辞めてしまった。あのまま惰性で続けていたら、素敵な出会いの一つや二つあったのだろうか。なんか違うな、と思ったら、さっさとその場を離れる技術を覚えた。
 ひと言申し添えておくと、僕は東さんのことを過剰に崇拝するような取り巻き文化を気色悪く思っている。その一方で、たいして著作を読みもせずに東さんの思想を批判する(その多くは「批判」とさえ呼べないもの)輩を軽蔑している。良いことは良い、悪いことは悪い。東さんに限らず、人物を見るときは是々非々の精神が大切だと思う。

 2011年3月11日、東日本大震災。誰でもそうだと思うが、この日を境に、既存の価値観は一変した。コロナ禍における人と人との分断にもえげつないものがあったが、9.11に続く、衝撃の大きな出来事だった。粛々と大学院生をやりつつも、僕なりに「人間とは?」を考える機会が増えた。

 愛読していた坪内祐三×福田和也SPA!連載対談に「あの日、どこで地震を経験したかが将来的に重要な意味を帯びてくる」といった発言があったように記憶しているのだが、その通りだと思う。僕は阿佐ケ谷の自宅マンション9階で、PCに向かって考え事をしていた。今まで体験したことの「ある」、床が波打つような揺れ。とっさにとった行動は、通信ができるうちに、大阪の母に電話をかけることだった。まだ足元がぐらつくなか、「あの時とおんなじや!」と叫んだのが第一声。電話口の母もさぞ心臓に負担がかかったことだろう。揺れが収まってからテレビを付けると、かつて目にしたことのない光景が続々と飛び込んできた。

 1995年の阪神大震災、僕は中2で、大阪府茨木市の実家マンション6階もかなり揺れたのだった。スチール製の本棚は倒れ、一部の食器が割れるなどした。が、揺れの烈しかった地域に比べれば、どうということのない被害だ。同じ関西の中でも、神戸の人と大阪の人で震災被害に対するまなざしはまるで違っていた。大阪府内でも、僕の住んでいた北摂大阪市内では捉え方に大きな差があった。奈良県から通学の同級生なんて、普通に笑って暮らしている。まさに対岸の火事といった顔。何事もなかったかのように「日常」を続ける東京発信のテレビ番組に怒りを覚えたりもした。

 そして、2011年の東北と東京である。あまりにも考えるべき要素が多くて、当初はずいぶん困惑した。僕の研究の方法論のひとつであった「中心と周縁」など、何か役立つことはないかと思ったが、まるで無力である。自分の研究では誰も救えないのか、実学じゃないと日本では認めてもらえないのか……。いらんことをいっぱい考えてしまったが、こういう時こそ「想像力」と「思いやり」だと、自分を立て直した。僕が1995年に大阪にいて、2011年に東京にいることには意味があるように思えた。直接的に何か行動するわけではないが、常に弱き者の味方であろうとすることは、できる。「道化」の視点は危機の時にこそ力を発揮するはずなのだ。

 その日、妻は真夜中に電車を乗り継いで、疲労困憊で帰宅した。ほとんど寝ずに、数時間後に出社する羽目になった彼女に対する想像力を僕は著しく欠いていた。組織とは、何なのだろう。30歳そこらの僕はまだまだお子様だった(恐ろしいことに、今でもそうだが)。思えば、ここが分岐点やったのう。

 閑話休題

 地震の後はすぐにTwitterで情報収集していたのだけれど、すでにこの頃には、当たり前のようにTwitterを使っていたのだなと感慨深くもなる。調べたところ、僕のTwitter開始は2009年12月のことらしい。そこから思いがけない出会いが連鎖したのだから、一概にSNSのあり方を非難することなど、僕にはできない。お話してみたかった方と直接やりとりできる可能性があるのって、どれだけ素敵なことか。ギスギスせず、のどかで楽しい時代でした。友達の輪が広がり、ようやくICUから外に出られると直感した。

 2009年から2011年にかけて、ちょっと目まぐるしい日々を過ごしていたのだと思う。大袈裟ではあるが、「今、生かされていることの意味」を考えながら暮らすようになった。博士課程の生活もついに終盤へと突入。僕はここから、とんでもなく大きな出会いと別れを経験することとなる。