志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学院【第4回】

 2006年(26歳)あたりの自分の姿を回想している。なんて未熟者なんだろう。学部時代のことを思い出すと甚だ恥ずかしいが、修士課程の終盤ともなると、その恥ずかしさはより生々しいものに。まだまだ若いくせに、何か物事を知った気になって、どんどん世間との折り合いがつかなくなるのだ。この時点で就職という道を選んだ仲間は皆、立派に羽ばたいていった。博士課程に残るということは死を意味し……はしないけれど、極端に職業の選択肢が狭まるのは確かで、相応の覚悟を決める必要がある。

 友人から、とある東大教授(表象系)の言葉を紹介された。博士課程への進学はアーティストを志望するようなもので、自分の能力を見極め、運も引き寄せなければならないという。何より、好奇心と粘り強さを絶やすことなく、自分の「好き」を究める道なのだ。うん、納得。僕はこの点、肝が据わっていたつもりだったが、年々、首を傾げることが増え、その首が地面にめり込むほどになっていった。自分は道を見誤ったのだろうか、いやいや、そんなはずはない。目の前のことに真面目に取り組んでいれば、いつか視界が開けると信じていた。

 恩師の並木先生は、ちょうど僕が修士課程を修了するタイミングで退職された。これはちょっとした誇りなのだが、僕は先生の最後の弟子の一人なのだ。OB・OGに現役の教職員や学生を交えて、学食でパーティが行われた。なんといっても学食なので、そんなに気合いの入った催し物でもなかろう。少し顔を出すつもりで立ち寄ったのがよくなかった。2年前に学部を卒業した仲間も数人来ており、プチ同窓会の気分。宴もよき頃合いとなったところで、スピーチの時間帯となった。

 並木先生の歴代の教え子(各方面で確固たる地位を築いている方々)が思い出話を披露したり、教会関係者や人文科学科の先生方が次々と感謝の言葉を述べる。司会の奥泉光さん(芥川賞受賞作家にして、僕の直系の先輩)が突然、僕の名前を呼んだ。スピーチに指名されたのだ。聞いてねーよ……。なんというか、ICUのある種の人達は「唐突に水を向けられたときの即興性こそ至高」と考えているふしがあって、僕はその種のマインドを激しく嫌悪していた。いや、もちろん、臨機応変に話を組み立てることは大事だが、何もこんな場でそんな試練を与えなくても。しかも、僕以外の方々は何日も前からスピーチを仕込んだ気配があり、なんか知らんが「圧倒的不利」という文言が頭の中を駆け巡った。

 それでもめげずに、言葉をひねり出すのが僕のいいところ(?)だと思う。パーティ・スタイルでいつになくシュッとした装いの並木先生(とオーディエンス)に向かい、「こうして先生とご縁のある方々の前でお話しすることに運命的なものを感じます。今までお世話になり、ありがとうございました」的な1、2行の文章を発したのだった。革ジャンにベルボトム、先の尖ったブーツ姿で。完全に浮いていたし、「すべった」空気を肌で感じてしまった。100人ぐらいが集まった場内で、おそらく僕のことを推薦した一団と同級生数名だけが満面の笑みと拍手で迎えてくれた。「いやー! 学生らしくてよかったよ!」ですって。なんのフォローにもなっていませんけどね。

 このことがあってから、僕は「段取り」や「仕込み」に対して人一倍敏感になった。即興が即興であるためには、入念な準備が必要なのだ。軽音サークルの舞台で人前に出ることには慣れていたつもりだったが、さらに心臓が強くなった。この心臓は、博士課程という修羅の道が進むにつれて、強度を増していくわけだが。

 話を変えよう。そうそう、この時期のメロユニ(軽音サークル)での活動のことを話していなかった。学部時代の後半に、いわゆる「大学デビュー」的な空気を存分に吸わせてもらった青春の場。大学院に進んでも、キーポンロッキンの精神で、この最高の仲間たちとの交流は続いていた。学年の近い友達が次々と巣立っていく一方で、ナウなヤング層との交わりが増えたのはありがたかった。

 僕は今でもしみじみ思うのだ。あの時、ああいう選択をしていなければ、出会わなかった人たちがいる、と。修士1年の頃に入ってきた学部の新入生などがまさにそうで、妙に新鮮な気持ちで彼ら彼女らと接したものだった。何をコピーしたかは忘れてしまった(たぶんMR.BIG)が、数カ月前まで高校生だった子たちとバンドを組んで、リハスタ帰りにみんなでマックを食べて、などという経験の得難さ! そのことを想うたびに、胸のあたりがあったかいような、こそばゆいような感情で満たされてゆく。選択ひとつで出会いの幅は劇的に変わる。だからこそ、自分の信じる道を貫かねば。読書や観劇の日々の合間に、若々しい息吹に触れたことは財産だと思っている。自分だって当時は若かったのだが。

 修士課程から博士課程に移行する時期に、僕の音楽的嗜好も微妙に変化していった。それまでは主としてハードロック/ヘヴィ・メタルの増強に勤しんでいたのだが、読書のお供としてのプログレやジャズに目覚めた。なるべく、ヴォーカルのないものが望ましい。ロックの名盤を集め尽くすと、大体の人はこうなってしまうものらしい。同時期に、アンビエントにもハマり、APHEX TWINなどを聴いて悦に入っていた。レコファンディスクユニオンにはアホほどお世話になったが、HMVのポイントカードがえらいことになっていたのもこの頃だったと思う。ああいう購買意欲はある種の熱病のようなものだったな……。もちろん、大きな糧となっているけれども。

 メロユニーズとの交流で思い出した。この頃に始めたmixiがそれなりに軌道に乗ったのだ。先輩・後輩の区別なくネット上でやりとりできるツールは、己の文体を鍛える意味でも結構役に立った。まあ、あの限られた空間内(要するに内輪)で「〇〇さん、文才ある~!」みたいに褒め合うのは気色悪いなと思っていたが。今でもアカウントは廃棄せずにいる(絶対に教えません)。

 あっ、もうひとつ思い出してしまった。ウイイレにたいそうハマって、生活がおかしくなりかけたのもこの時期だ。ゲームに詳しくない人のために言っておくと、「ワールドサッカーウイニングイレブン」は実によくできた本格サッカーゲームでして、ジーコ中村俊輔のヴィジュアルを前面に出した「10」である種のピークを迎えておったわけです。実在のクラブや選手を操り、チームを成長させていく感覚は、ほとんど唯一無二と言ってよかった。アーセナル時代のアンリが好きだった。僕は敬意をこめて「指サッカー」と呼んでいたのだが、あまりにボタンを押し過ぎて、指に変なタコができたほど。メロユニの友人数人でいったい何夜明かしたことだろう。あれ以来、ゲームには触れていない。ハードはプレステ2どまり。そんな大学院生だった。

 こう振り返ってみると、世の中をナメくさっているようだが、いやまさか。楽しいことは物凄く楽しかったけれども、苦しさの苦しさは確実に忍び寄ってきていた。その辺の事情は、次回以降、博士課程編で明らかになるはず?

僕と大学院【第3回】

 朝起きてから1、2時間以内のフレッシュな脳味噌で書き物をしたい。長年そう願いながらも、一年に数回しかそんな状況を生み出せずにいる。ならば仕方がない。絶えず、読む。絶えず、書く。せめて心がけだけでもそうあらねば。こんなふうに考え始めたのは、修士2年の頃だったと思う。

 狂言の観覧が徐々に定着したのはよいことだが、それを支える知識が圧倒的に足りない。伝統芸能に関する基礎的な文献に目を通すだけでも、残酷に時間は過ぎてゆく。そのうえ、主軸とすべき「道化」や「笑い」といった概念もまだまだ勉強不足。関心が広がるのは素晴らしいけれども、いったい何をどこまで学べばよいのやら、日々焦っていた。

 ICUは3学期制で、9月の頭から秋学期が開始となる。留学生・帰国生といった新入生を迎えていよいよ「フル・メンバー」となった大学構内は、活気に満ちる一方で、夏の終わりの寂しさを引きずった人々がゾンビのように彷徨う場所と化す。目に一定の輝きはあるが、なんとなく体が重いゾンビ。僕のことである。

 大学から離れて10年が経ち、ようやく克服できた感があるのだが、僕は夏休みとのお別れがことのほか苦手なのだ。秋学期の履修登録日が近づくにつれ、下宿のベッドで涙目でのたうちまわるような性格だった。これは三鷹や小金井の豊かな自然風景とも関わりがある。あの地域は、お盆を過ぎた頃から風の匂いや虫の声が一変する。スーパーに行けば秋仕様の缶ビールなど陳列されている。こうなると、もうダメ。僕はしばらくの間、思考停止に陥ってしまうのだった。

 そんななか、学部時代と比べて少し成長を感じたのは、自分なりの本の読み方を身につけ始めたことだ。この頃から、手帳に簡単な読書記録を付けるようになり、これは今でも続く大事な習慣となった。「読むべき本に出会うために濫読しなさい」と村上陽一郎先生(当時のICUの代表的知識人の一人)が学報か何かに書かれていたのを目にして、真に受けたのがよかった。

 試行錯誤の末、同時に3冊読み進めていく技術を手に入れた。1冊でも2冊でもダメ。4冊以上はムリムリ。3冊並行して、というのが僕にとっての丁度よい塩梅なのだ。①小説・エッセイ・詩歌などの創作系、②文学理論などの思想系、③ジャンル問わず好きなもの、というふうに3本の柱をイメージしての読書。これで月に10から15冊(雑誌は除く)といったところか。人によっては1日1冊あるいは2冊の本を読んだりするらしいが、僕にはそんな量産体制が築けなかった。当時40代くらいの非常勤講師が「あなたたちが若いうちにどれだけ頑張って読んでも、たかだか3000冊ぐらいのものです。人類の知の蓄積の前ではなす術もありません」と言い放ち、結構な衝撃だったのだが、今なら納得する。そうだよなぁ。人生で読める本、特に若いうちに吸収できる本なんて限られている。ここでも効率の良い時間の使い方が鍵になってくる。

 何はともあれ、修論のテーマは「太郎冠者考ー日本文化の中の道化について」に固まった。狂言の主要なキャラクターである太郎冠者に注目し、彼がふりまくクスクス笑いやガス抜きの効果に焦点を当てて論じたもの。主従関係の価値転倒がキーワードで……と今なら客観的に振り返ることができるが、修論の時点での僕の論考は「卒論に毛の生えたようなもの」だったと思う。「道化のような人が道化の研究をしているね。アハハ」と並木先生は常々おっしゃっていて、その励まし(?)をずっと大切にしている。

 卒論と違って、日本語で書いてもよい(!)テーマだったので、少しは増量できた。とはいえ、周りはぶ厚い論考を提出する猛者ぞろいだったので、なんだか気後れするところもあった。えーい、大事なのは中身だ。僕は幼少の頃から、他の人が一頁かけて論じるところを一行でズバッと言う性格なのだ。開き直りの能力を習得したのも、この頃かもしれない。

 ICU名物のセルフ製本(和綴じ)だが、卒論の時とは違って、さすがに余裕をもって……とはいかない。結局、執筆は締め切りギリギリまでかかってしまう。最後の3日間はほとんど寝ておらず、大量の眠眠打破が下宿の床に転がった。こういう体たらくは二度といたしませぬと心に誓った。物書きになってから気付いたことだが、よくできる人ほど、余裕をもって提出物を完成させる。締め切りギリギリ、あるいは締め切りを過ぎることをよしとする人は、何をやらせてもダメだと断言できる。

 そういえば、博士課程の願書の締め切りが修論のそれと重なっていて、死にそうだったことを覚えている。志望動機や研究計画など、かなり面倒な手書きの書類を半日で準備する必要があり、文字通り、命を削って書いた。こういう苦しい光景ほど、やけに鮮明に蘇る。

 修論の審査は、主査が並木先生、副査にツベタナ先生と青井明先生を迎えた3名で行われた。ツベタナ先生には、この修士課程の2年間で、公私にわたり僕のキャラクターを見抜かれていた。つまりは何の心配もない状態。フランス語学の青井先生とはこの時が「はじめまして」だったのだが、こちらが恐縮するくらい丁寧に論文を読んでいただいて、建設的な意見を多く頂戴した。「リメンバー・院試の面接」を合言葉にしたのがよかったのだろう。適度な緊張感のなか、和やかに審査にパスできたのは誇りである(課題は山積みだったが)。

 その後、博士課程進学のための院試、つまりは面接も受けたはずだが、不思議なことにこっちのほうはほとんど記憶にない。とにかくたくさん観る、とにかくたくさん観る……。呪文のように念じながら、僕は引き続き伝統芸能の観劇を中心とした大学院生活を送ることとなった。自分で選んだ道だもの、覚悟を決めないとね。周りの友人にはそんなふうに告げていた。たいした実力はないが、怖いもの知らずだった。無知だった。この時期にあまりにも戦略を欠いていたため、後々苦労することになるのだが。

 これはICUの良くないところなのだけれど、立地的に陸の孤島であるうえに、学生の個人プレイが尊重されているものだから、いつまで経っても外部との繋がりを確保できない。今は知らんが、外部の学会や研究会に属さず、ぽやーんと大学院生活を送っている人がほとんどだった。僕のその一人。そして、このミスは博士課程に入っても尾を引いた。

 青春とは選択を間違えてばかりの時代なのかもしれない。「自分にはこれしかない」と思って進んだ道が激しく見当はずれという可能性はおおいにある。僕は特別な賢さも要領のよさも持たない人間である。愚直に這いつくばって前進するしかなかった。ただし、好奇心のアンテナは常に張っておきながら。

 目の前のことを懸命にやり抜くだけで20代の前半は終わってしまった。あっ、並木先生のご退職パーティの話やら、この時期のメロユニとの付き合い方のことを書くのを忘れていた。次回はこのあたりの話題から。

僕と大学院【第2回】

 8月ももう折り返し地点。真夏の1、2週間なんて「刹那」である。そのことをおじさんは痛感中なのだが、大学院生という身分も一瞬の出来事だったなぁと今さらながら感じ入る。

 4000字ほど書いた下書きが消滅してしまった。めったにこういう失敗はしないタイプなのだけれど、いよいよ「加齢」の二文字がちらついてきた。今回は、修士1年の後半から修士2年に上がる頃を無理矢理振り返ってみよう。当時は「おれも歳をとったものだな……」なんて虚空を見つめたりしていたものだが、いやいや、何を言うとるの。今の自分に比べれば、遥かに若く、無防備で、無限の可能性に満ちていた。そう、修士課程の学生なんて、果てしなく幼稚な存在なのだ。

 それはともかく、修士論文の題材を狂言に定めた僕は、学割などのあらゆる割引手段を駆使して、国立能楽堂の定期公演を中心に、野村萬斎茂山家のような有名どころが出演する公演を片っ端から観るようになった。狂言という芸能は初めて観る人にとって非常に易しいつくりになっていて、せりふの掛け合いが単純なのである。現代人でもスッと世界に入っていきやすいという利点がある。指導教官の並木先生はそこがよき糸口となると見越して、ボンクラな僕を鼓舞してくださったのだと思う。

 狂言は通例、能とセットで上演されるのだが、市民ホールなどで狂言のみを観ることができる公演も多数あり、僕はそうした機会をたくさん利用した。大学院にいた10年間限定とはいえ、この経験はその後の僕の持ち味となった。

 今でこそ狂言の笑いのエッセンスは広く知られているけれども、2000年代の初頭にあって、狂言という芸能は勘違いされがちだったように思う。『にほんごであそぼ』の「ややこしや」も、お笑い芸人のすゑひろがりずも出てきていなかった時代のことだから、無理もなかろう。特に、能との区別ができていない人が多く、僕は自分の研究を説明するたびに、モヤモヤを抱えることとなった。文学に詳しい友人も能と狂言を混同していて、けっこう絶望したものである。昨日今日フィールドワークを始めたばかりの自分が言うのもナンだが、実際に一度観てみれば、どんな雰囲気のものなのかわかるのに、みんな、それをしない。ことに古典芸能となると、かたくなに観に行かないのだ。「お金を払って(まで)観る」という行為に納得がいかない模様だった。これはロック・コンサートにも当てはまることで、文化に敬意(とお金)を払わない人たちのことを僕はいまだに軽蔑している。

 いかん、気が緩むと言葉が汚くなってしまう。

 芸能というものは「たくさん観る」うちに勘所がわかってくるもので、青二才の僕もそれなりの感想を持つようになってきた。狂言は非常にとっつきやすかったが、能はひたすら眠かった。ただし、モノの本によれば、良い能というのは眠くなるものだそうで、これはつまり、幽玄の美を自分なりに感じ取っていたということなのだろう。何度、あちら側の世界に堕ちたか数えきれないほどである。ある時から、能は音楽的に楽しもうと割り切るようになり、そこから視界が開けたのを覚えている。PINK FLOYDRADIOHEADにも似た宇宙が広がっていると思えば、ありがたさが増してくる。

 何よりよかったのは、文献に向き合うだけでなく、フィールドワーク的に「演劇の発生する場」に出かけ、場内に立ち込める空気を吸収できた点だ。こうした体験を重ねてきたからなのか、「現場で目撃すること以上に尊いものはない」と錯覚するきらいが今でもある。観客の笑い声と演者のグルーヴがある種の調和をみせる時、言葉では表せないような磁場が生まれるのだ。「道化」という主軸を磨きつつ、「観客参加論」という視点をも育めたのは、大学院時代の収穫だと断言できる。

 相変わらずCD店(中古・新品問わず)を冷やかす習慣は消えなかったが、ここに古書店通いが加わった。学部時代はたいして本の買い方をわかっていなかったが、「研究のため」という口実を作り、中央線沿線の古書店を次々に散策していくようになったのがこの頃。自分の足を使って手に入れた書物にはかなり愛着が湧くもので、いったい何百冊の本を20代のうちに仕入れたことかわからない(何千冊、までは行かないと思います)。

 大学院生といえば、コーヒーだ。あの香りを嗅げば、自然と頭がシャキッとなる。吉祥寺周辺のカフェに出かけ、文庫本を読む時間を大切にした。実は大学構内で学べることなど限られていて、教授陣や研究仲間には、自分で学ぶためのほんのわずかな道筋をつけてもらったようなものと考えていた。そして、この気づきは正しかったと今でも思う。自分が興味を持った分野であれば、僕は一生独学できる自信がある(その精度や奥深さは別として)。

 そういえば、大学院生活でどんな人たちが周りにいたかをあまり語っていなかった。まったくもって波長の合わない人も何人かいたが、同学年、先輩、後輩には恵まれていたと思う。陰湿ないじめもなかった。単に気付いていなかっただけかもしれないが。僕の入学年度には、比較文化研究科の修士課程に10人に迫る勢いの新入生が入ったと記憶している。これは当時としては過去最大規模の人数で、だいたい毎年5、6人も入ればいいところへ、好奇心旺盛、かつ、まっとうな学生が集まった。

 修士1年の終わりごろ、ごくごく限られた内輪でのカント『道徳形而上学原論』(岩波文庫)読書会のお誘いを受けた。信頼すべき友人が東京女子大から数人の哲学科の学生を連れてきてくれて、その方々と意見交換するなど「なんだか学生らしい」活動を行ったのだった。カントも哲学も僕の専門ではないけれど、本質的なことが書かれた本を自分とは異なる視点を交えて分析するのは楽しいもの。ただし、読書会には罠があって、フンフンうなずき合っているだけの会ならば、いっそ一人で読み進めたほうがいいということも学んだ。この打ち上げの席で20コぐらい年上の女性から「志村くんはスウィートだと思う!」と言われ、ハハハと乾いた笑いを発した記憶がある。あれは何だったのか。こういうどうでもいいことばかり覚えている。釜飯が出てくる居酒屋だった。

 本やCDを買い漁ると、たたでさえ無いお金がほぼゼロとなる。働かないといけないのは山々だが、院生には読書のための時間が必要だ。これまた友人の紹介で、僕は学内図書館のカウンター業務のバイトを始めた。カウンター業務といっても、司書のようなことをやるわけではなく、自動化書庫から出てきた本のバーコードを読み取って、利用者のために棚に並べていくという仕事が中心。その他、道案内をしたり、プリンターの紙を補充したり、わけのわからん教員に怒られたりと、なかなか貴重な時間を過ごした。特にやることがない時は本を読んでいてもよかったので、これが非常に助かった。「世界一暇な仕事」と友人から揶揄されたときはブチ切れそうになったが、まあ、こんなことでお金をいただけるのだから甘いもんだよなぁ。学生っていいなぁ、というお話。

 研究(というか観劇)にはまだまだお金が要る。ICU関係者は、僕が長らくツベタナ先生のアシスタント(≒しもべ)を務めていたと認識しているようだが、それは正しくない。僕がTA(ティーチング・アシスタント)に就いたのは博士課程の1年目か2年目だったと記憶している。修士2年の後半あたりに、ようやく「副手」なる謎の役職を与えられたのだと思う。非常勤講師室でスペイン語・韓国語・ロシア語の先生の到着を待ち、教材の指定範囲をコピーするお仕事。これは楽しかった。何より、講師室に常駐するご婦人二人がとても心配りのできる方々で、「ああ、こういう優しいスタッフの存在によって皆は支えられているのだな」と毎度感服した。彼女たちの振る舞いによって、若造の僕は「下働き」というものを舐めずに済んだのである。

 なんだか、たくさん書いてしまった。次回は修士課程におけるメロユニでの活動、修論の提出、博士課程進学あたりを。

僕と大学院【第1回】

 しばらく大学院時代のことを振り返ろうと思う。博士後期課程を修了したのが2014年の3月なので、ここから休学等を挟みつつ、約10年間も大学院に身を置いた計算になる。思えば、長く曲がりくねった道のりだった。その「幕開け」の部分が今回の記事というわけだ。

 ここ数週間、大学院に入学したての頃を思い出しているのだが、特に面白い出来事はないっ……。いやいや、実際はそんなことはなかったと思うけれども、学部時代ののほほんと刺激的な毎日に比べれば、実務的場面が多く、バラエティに富んだ現実を知ることとなったのだ。たいして大きな理想は掲げていなかったが、なるほど、大学院とはこんな場所なのかと妙に冷静になっていた気がする。そして、人間誰しも、同じ場所に長い期間留まれば、見たくもないもの、聞きたくもないことに触れる場面が増えてしまうものなのだ。

 2004年3月に国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業。同年4月に国際基督教大学大学院比較文化研究科比較文化専攻博士前期課程に入学した。修士1年生の始まりである。ICU名物の桜が咲き、散り、新緑の気配がする時期に、僕は新たな緊張感を持ってこのキャンパスと一体化した。

 「大学院って、どんな場所なの?」とよく聞かれるのだが、ICUの場合、学部と独立した建物があるわけではなく、基本的に生活圏は同じ。ただし、教授陣のオフィス周辺の部屋に参上する機会が増える、という程度のものだった。

 一応、入学式もあるのだ。初々しい学部1年生たち、つまりは4年前の自分の姿を式場の隅から見守るのは変な気分だった。式が終わってすぐに、入試の面接で強烈な印象を残したブルガリアの虎……じゃなかった、ツベタナ先生にご挨拶に伺った。関心領域が僕と重なり、お世話になる機会も多いだろうから、あらためて自己紹介しておいたほうがよかろう。スーツ姿のままだったのが功を奏したのか、「面接のこと覚えてますよ! バツグンに賢い人だと思った!」と極端な好印象を持たれ、困惑した。まあ、この種の誇張(≒時空の捻じ曲げ)は先生の話術の一環だと後々わかるのだけれども……。とにかく、節目節目でちゃんと挨拶をしておくのは、お互いにとって気持ちの良いことである。

 たまに「大学院とは病院みたいなものですな。私も夢中でやりたいことをやっているうちに『入院』してしまいました。ワハハ」みたいなことを言う先生に出くわすことがあった。すごく品のない言葉だなぁ。学部時代には気付かなかったけれど、いろんな教授がいるものだと知った。僕が幸福だったのは、この種のつまらない教員とほとんど縁がなかったことだ。

 入学して即、修士論文の指導が始まるわけではない。約1年かけて、演習形式の必須科目をいくつか取らなければいけないのだ。これが地味に大変で、「リベラルアーツ大学における大学院のあり方とは何ぞや?」と常に疑問を持ちながら格闘する羽目になった。まあ、知的に鍛えられたとも言う。授業といっても、4,5人の院生がセミナールーム(のようなもの)に集まり、その道の専門家たる教授と講読や議論を重ねることが主だった。思えば、贅沢な時間を過ごしたものだ。何ひとつ内容を覚えてはいないのだが、それらの知的エッセンスは自分の血肉と化していると信じたい。

 そもそも、自分は何を専攻とすべきなのか、この段階でも確定していなかった。学部時代に自由を謳歌したあまり、「私は●●学を研究しております!」と胸を張って言えるような分野がなかったのである。こういう学生はリベラルアーツ系の大学に意外と多いのではなかろうか。とあるフランス人の先生は「『比較文化』でいいんじゃないですか?」とおっしゃってくださったが、うーん、それだと扱う範囲が広すぎて、ここ日本では説得力に欠けるんですよね。「君にヒントをあげよう。日本文学をやりなさい」と例の悪夢の面接中に提案してくださった先生もいた。いや、そういうことじゃないんですよね。日本文学みたいに枠組みを固定して学びたくはないんですよね(と、その頃の僕は本気で考えていた。しなやかな日本文学よ、ごめんなさい)。

 困った。こんなときこそ並木先生だ。当時、先生はご自身のプロフィールの「専門」欄に「旧約聖書学」に加えて「文化創造」と書かれていることがあった。この響きがなんだかしっくりきたのである。そうだ、僕が進むべき道は「文化創造」なのだ。広いヴィジョンで物事を捉えるのが自分は得意なのだ、と若さゆえの健全な勘違いをして現在に至る。

 その後、僕は博士課程でがっつり「日本文学」と関わることになるのだけれど、この修士課程の段階では、記号論や文学理論を学んで、何かしらを批評するというスタンスでやっていこうと決めた。ただし、その「何かしら」を定めることが難儀なのである。要するに、一次資料を何にすればよいのか、わからない。学部の時点では大抵のことに目をつぶってもらえるものだが、修士論文を書くにあたって、より具体的な題材をセレクトし、分析の精度を高める努力が必要となる。うーん、弱った。

 そもそも僕は、卒論の執筆を通して、バフチンの思想のエッセンスに触れる機会を得ていた。さらに、その周辺の読書によって、山口昌男という超絶に面白い語り手の存在を知ってしまった。ここから何かヒントを導くことはできないだろうか。特に、彼が声を大にして紹介する「道化」という視点がとても気に入った。この概念と絡めて、何事かを論じられれば最高だ。僕に何かヒントを! 題材を!

 足繁く並木先生のオフィスに通ううちに、ぽつりと「狂言を観てみたら?」と言われた。えっ! 先生、そんなの無理です。20年とちょっと生きてきて、狂言などという舞台芸術にはまったく関心がなかったのですから。そんな思いを胸に秘めつつ、百聞は一見に如かず。国立能楽堂に赴き、生まれて初めて狂言を観た。なるほど、狂言には太郎冠者という道化的な振る舞いをする人物が付き物だ。ここに焦点を絞れば、自分が論じたかったことのカケラのようなものを見出せるかもしれない。狂言を観るのであれば、当然、能も観なければならない。歌舞伎も、落語も、漫才も。できれば周辺の演劇も。

 というわけで、この2003年の夏から博士号を取得するまでの約10年間、僕は毎週のように狂言をはじめとする舞台芸術(特に笑いを伴うもの)を観るようになった。それまでまったく観劇の習慣のなかった若者が相応の時間とお金をかけて未知なるものを吸収していったのだ。結果として、演劇専攻の学生などとは一風異なる感性を磨くことができたように思う。また、こうした新習慣にかこつけてハード・ロックヘヴィ・メタルのライヴによく出かけるようになったことも、その後の人生に大きな影響を及ぼしている。

 夏の終わりに、並木先生のゼミ合宿(ここでは便宜上「ゼミ」の語を使うことにする)で、狂言の笑いに関する発表を行った。優れた知性を持ったOBに褒められたのをきっかけに、僕は勢いづいた。あの頃の自分は、右も左もわからないどころか、今どこに立っているのかも把握できていない未熟者だったと思う。好奇心だけは一丁前の、武器も経験も持たない若造に優しく声をかけてくださる人が何人もいた。とりわけ、「とにかく、たくさん観なさい」の並木先生の声には励まされたものだ。先生は狂言の専門家というわけではないが、そんな彼の直感だからこそ信じたほうがいい。年の離れた優秀な先輩はそうアドバイスしてくれた。ついでに言えば、大学院以降のアカデミックな世界では、「お作法」が大事なのだ、とも。一見バカバカしく思えるような形式やプロセスこそ、真面目に取り組む必要がある。なるほどなぁ。

 むやみに感心しているうちに、修士1年目の半分以上が過ぎてしまった。またしても、就活か進学かといった現実的な二択が目の前に突き付けられてくる。たいして本も読まないうちに、残酷に時計の針は進んでいく。自分の圧倒的な実力のなさに呆れつつも、「とにかく、たくさん観る」の精神を貫く旅が始まった。

僕と大学【第10回(最終回)】

 「このままだと、イナカモノの論文になりますよ!」剛速球の、大音声だ。面接会場の空気が張り詰める。それまで一言も発していなかった東欧系と思しき女性に日本語で喝破され、僕は硬直した。僕のバフチン理解がいかにお粗末なものであるか、解説書をまとめただけの論考に過ぎないかを指摘され、撃沈。いち学生の骸がそこに転がったのだった。

 当時のツベタナ先生は、ICUに着任して1、2年目だったように思う。要するに、どんな先生なのか、まだ皆よくわかっていなかった状態である。彼女の下で卒論を書くこととなった友人から、オフィスに挨拶に行くと明治ブルガリアヨーグルトが出てきた、なんてミステリアスな話を聞いていた。一体、どんな方なんだ?

 ツベタナ先生は、ブルガリア出身の日本文学研究者で、『とはずがたり』や『枕草子』をブルガリア語に翻訳したことで知られる。専門は「日本古典文学の詩学、日本文化の意味生成過程、文化・文学理論」(インターネット調べ)なのだが、縦にも横にも斜めにも守備範囲が広く、今までICUで出会ったことのないタイプ(意味深)の先生だった。知識が圧倒的なのは言うまでもないが、燃え盛る情熱という点において、僕はこれ以上の人間を知らない。

 ごくまれに「日本語がよくお出来になるんですね~」などとニヤけながら先生に接近する人がいるが、そいつはタブーだ。命の保証はない。あなたの数億倍「日本語ができる」方なのだということをわきまえよう。あと、「クリステワ先生」と他人行儀(?)に姓で呼ぶことも避けたい。

 この時点では、その後約10年に及ぶお付き合いになるとは夢にも思わなかった。喜怒哀楽、さまざまな感情が渦巻く先生との長い長いエピソードは、大学院の博士課程編でお楽しみいただこう。ひとつ補足しておくと、ツベタナ先生の思想に触れる入口として、『心づくしの日本語―和歌で読む古代の思想』(ちくま新書)がある。僕が大学院在籍中に学び、その後も大切にしている教えがふんだんに詰まった名著なので、興味のある方はぜひご一読を。

 話を元に戻そう。初対面かつストレートな物言いの教授に圧倒された僕は、べそをかきながら面接会場を後にした。なんだか人格までも否定されたかのようなショックの受けようだった。これは、落ちたな。めったに着ないスーツに身を包んだままメロユニの部室に行くと、いつもの顔ぶれが「どうだった?」と気にかけてくれた。どうだったも、こうだったも……。浮かない顔で事情を離すと、「ブルガリアの虎に咬まれたね!」と友人が大笑い。そこでようやく、リラックスすることができた。当時、『¥マネーの虎』という深夜のプレゼン番組が人気で、確かにそう言われてみれば、あの面接での攻防はマネーの虎的状況だったのだ。

 帰宅後、実家に電話をかけた。二十歳を超えてからほとんど泣くことなどなかったが、あまりにも絶望的な心境に陥り、「あかんかったわ。圧迫面接やった」と母に向かって、おんおん泣いた。僕は人生の節目節目で泣いてるなぁ。

 後々伝え聞いた話によると、先生は当日の通勤時に渋滞に巻き込まれたか何かで、ことのほかご機嫌斜めだったとのこと。後年、先生のアシスタントとして仕えた立場からすれば、それって”あるある”なのだが、とにかく強烈な第一印象だった。「四万十川料理学校のキャシィ塚本先生」を思い浮かべていただければよい。唯一無二の存在ですね。

 この院試での失敗を糧として、博士課程への進学時や修論、博論の審査ではかなりうまくプレゼンすることができた。これから大学院関係の面接や審査に臨む後輩に言っておきたいことがある。「あなたの研究や論文の内容を簡単に説明してください」は必ず冒頭で問われる事柄だ。ここで淀みなく発話できれば、まず失敗することはない。たとえ意地悪な面接官に当たったとしても、ここでぶれない軸を表明することが大切だと思う。

 なんやかんやで、秋の院試に合格することができていた。並木先生が修士課程でも面倒を見ると名乗り出てくださったことが大きかったようだ。

 卒論のようなものはすでにでっち上げた。ここから最終稿の提出までには3カ月弱ある。余裕をかましたわけではないのだが、気が抜けたのは確か。当時の人文科学科では、原則として英語での卒論執筆が求められていた。例外として、日本文学専攻の場合は日本語での執筆可、といった謎のローカル・ルールもあったわけだが、僕はあいにく旧約聖書学の指導教官のもとで(それとはまったく関係ないことを)執筆していたため、英文。卒論の締切1週間前から、自分の書いた拙い和文をすべて英文に翻訳する辛さといったら! しかも、卒論執筆のクライマックスを迎える年末年始は、手足足先が冷えまくる季節。旧センター試験といい、論文の締切といい、日本の大学はこの時期に一大事を設定することをどうかやめていただきたいと願うほどである。

 もうちょっと早く提出しようと思っていたが、結局、締切日の朝イチに大学構内に駆け込んだ。中身は完成したが、ここで当時のICU名物、和綴じの製本という難関を突破せねばならない。あれはまったく意味のないシステムだったと思うのだが、学生は製本業者などに依頼せずに、自力もしくは友人の協力を得て、タコ糸と針を駆使して、人生で未体験の込み入った手作業をせねばならんのだ、この土壇場に! 僕はまったく手先が器用でないので、職人的に待機していたそこら辺の友人を捕まえて、その作業のほとんどをやってもらったと記憶している。徹夜明けだったため、記憶が朧げだが。今でもタコ糸を見ると、震えがくる。

 まあ、そんなこんながありまして、卒業論文バフチンにみるテクスト概念の拡張とその再評価』(たぶん、こんなタイトル)なる薄っぺらい読み物ができあがった。メロユニの卒業ライヴでは、B'zとANDREW W.K.をやった。まったく意味が分からないセレクションだ。春から社会人になる同級生たちが感動的に送り出されるなか、僕はへらへら突っ立っていた。何かを選ぶことは、何かを捨てること。一般企業への就職という道を捨てたに等しい僕は三鷹の森でまだまだ遊ぶ気まんまんだったのだ。「遊び=学び」ぐらいに開き直っていた。若さゆえの慢心である。

 とはいえ、学部時代の僕は、その時その時でベストを尽くしていた。「ベストな選択」だったかどうかは怪しいが、「ベストな努力」はしたと胸を張って言える。環境に恵まれ、面白い友人を何人も得た。大学4年間では物足りないくらいにリベラルアーツを満喫した。どうかと思うほど、希望に燃えていたのだ。だからこそ、43歳にして中途半端にもがいている今の自分が情けないっ。

 次回から、新連載「僕と大学院」が始まります。大学編が『ドラゴンボール』だとすれば、大学院編は『ドラゴンボールZ』だ。というわけで、もうちっとだけ続くんじゃ。

僕と大学【第9回】

 もしタイムマシンがあったなら、この時代からやり直したい。その最有力候補が、大学4年生、23歳である。振り返ってみれば、あの時の選択が生きざまの分岐点となっている。人生をやり直したところで、僕は愚かにも同じ選択をしてしまうのだろうけれども……。2003年4月からの1年間、何があったか、思い出してみたい。

 最高学年ともなると、朝から晩まで大学にべったり、ということもなくなっていた。その程度には、快調に単位を取り終えていたのだ。べつに家にこもって映画を観たりしていてもいいのだが、あの緑麗しいキャンパスから離れるのは寂しいもの。何かと理由を付けては、メロユニの部室を中心に学内に参上していた。

 この年、とても嬉しいことがあった。「彼女いない歴23年」にピリオドを打てたのだ。相手はサークルの後輩で、中途入部してきたキーボードの子だ。春の新入生自己紹介に混ざって、2年生の彼女は恥ずかしそうに、しかし、堂々と「GLAYが好きです……!」と言い放った。周りがレッチリやらRADIOHEADの名前を挙げるなか、そのまっすぐ過ぎる姿勢に心を打たれた。その数カ月前のライヴで、GLAYの「彼女のModern...」を歌って、失笑と喝采を浴びたことを伝えると、大喜びしてくれた。ピュアな彼女はその後、悪い(?)仲間たちに導かれ、スラッシュメタルデスメタルを好むようになる。そして20年後、隣の部屋で修羅と化している。

 とまあ、こんなことはどうでもよくて(どうでもよくないのだが)、卒論執筆と大学院入試がこの年の大きなトピックだ。まず卒論。指導教官はもちろん並木先生である。先生の専門は旧約聖書学なのだが、この分野でがっつり指導を受ける学生はごく少数で、当時の人文科学科の「どこにも属さない/属せない」関心領域を抱いた学生が泣きつく最後の砦が先生だった。卒論提出までに数回発表会があり、あとは個人的に先生に相談しに行く、というスタイルも僕にぴったり。やたらクセが強いだけの人もいたが、聡明な学生が集い、知的な場を形成していた。ICUには3年生からゼミに入るようなならわしがなく、4年生からいきなり卒論指導を受けることになる。「ゼミ」というコミュニティにどうもきな臭さを感じる僕にとっては、好都合だった。

 僕は浪人時にお世話になった駿台表三郎先生からの影響で、バフチンのカーニバル論に関心を抱いていた。笑いをともなった価値転倒のありさまを、見事に言語化した人がいる。そのことにシビれた僕は、それほど迷わずにこのテーマを選んだのだが、あたりを見回しても、博識な並木先生以外に面倒を見てくださる先生はいらっしゃらない(と当時は思っていた)。ロシア語のロの字も知らない僕が、ロシアの文芸批評家の理論を読み漁る日々が続いた(日本語訳で)。こんな選択が可能だったのは、並木先生がヨブ記などの読解に積極的に現代思想のエッセンスを採り入れていたことが大きかった。

 次に院試について。就活なるものを完全にスルーしていた僕は、当面の目標を大学院合格に定めることとなる。なんといっても、ここはICUですから、海外の大学院に挑戦する人も一定数いたりする。ただただ、尊敬である。僕にはそこまでの覚悟はなかった。進学組の大多数は、東大・京大の大学院に進むか、ICUに留まるかといった選択肢になる。実は東大の表象文化論も視野に入れていたのだが、「失礼だけど、君の学力では受かりませんよ、アハハ。(悪いこと言わないから、ICUにしときなさい。)」と並木先生に説得され、このキャンパスライフを延長することに決めた。得難い自然環境から離れたくなかったことも最大の決め手だ。

 これはICUならではなのかもしれないが、留学生や帰国生の受け入れに力を入れている関係で、院試は秋と冬の2回開催される。卒論提出後に受験するのがポピュラーだが、万が一、不合格となった場合の身の振り方が心配だ。ならば、さっさと合格を決めて、卒論に打ち込もう、などと安易に思い描いてしまったのがいけなかった。10月の秋試験を受けることにした。院試で必要になるのは、筆記試験のための勉強、第二外国語、卒論に相当する論文の提出。さらには面接対策が求められる。実はこの面接というのが重要で、合否の9割はここで決まると考えてよい……のだが、僕はこの点を非常に舐めていた。このエピソードは後で詳しく述べよう。

 周囲がどんどん就職先を決めて、晴れ晴れとした表情になっていくなか、院試の勉強を始めた。春先から夏の終わりにかけての数カ月間は、大学図書館で百科事典などとにらめっこしながら、筆記試験対策のノートを作った。今はどうだか知らないが、ICUの大学院比較文化研究科の入試では、たとえば「まれびと」や「脱構築」といった人文科学寄りの専門用語をいくつか説明する論述問題が出題されていた。事前に対策できるのはこの問題ぐらいで、あとは自分の研究したい事柄について小論文のようなことを書いたのだと思う。このノート作りで培った根性が後々の大学院生活で役に立った。誰の力も借りずに、孤独を愛しながら、数百の項目をまとめたのですもの。ちなみに、後年、このノートのおかげで院試に受かった人を少なくとも3人ほど知っている。あまり感謝されていないうえに、みんな偉くなった。どうやら、人生とはこういうものであるようだ?

 第二外国語対策としては、半年ほどアテネ・フランセに通い、フランス語の初級から中級にかけてをおさらいした。わずかな期間ではあったけれども、あの通学は楽しかったので、大学院に入ってからも続けるべきだったと後悔している。三鷹の森は自然に恵まれているものの、文明と隔たりがあって、神田・お茶の水界隈の「都心の大学」とずいぶん趣が違った。通学路に無数に書店、楽器店、レコード店がある明治大学リバティタワーの存在がことのほか羨ましかったのも、この頃。ご飯屋さんも無限にあって、羨望オブ羨望。お茶の水で下車するたびに、ディスクユニオンのメタル館に足繫く通っていましたなぁ。キッチンジローの店構えをみると、今でもセンチな気持ちになってくる。東京の大学を狙っている受験生は、この界隈の雰囲気に早くから染まっておくことをお勧めします。

 こうした勉強を進めながら、「なんちゃって卒論」みたいな論考をでっちあげた。秋試験を受ける場合、当然、卒論は完成していないわけで、草稿とも言えないような中間報告めいた書き物を提出することとなる。あまりに幼稚な、概説書を切り貼りしただけのようなバフチン論だったとは思うが、これが下敷きとなって卒論「バフチンにみるテクスト論の再解釈」に結実したのだから、結果オーライ。

 やるだけのことはやったわけだし、志望学科の先輩は「面接は和やかに進むから、大丈夫」と励ましてくれた。当日の試験にもそれなりの手応えはあった。果たして、面接の際に事件は起こったのだ。「落ちる奴なんていないんだから」などと先輩から「ほぐされて」いたのがよくなかったのだろう。軽音サークルで身につけた舞台度胸はどこへやら、5人の面接官(=教授陣)が並ぶ部屋に入った途端、自分が何を話しているのかよくわからなくなってきた。「まずはご自分の研究について、説明してください」という問いかけに対して、しばし沈黙。「自分の研究!? ここはどこ? 私は誰?」といった具合に完全に混乱してしまった僕は、しどろもどろでバフチンの理論の魅力(この時点ではまだその思想のポイントを把握できていないのに!)を語った。

 僕の緊張を解くために、助け舟を出してくださる先生まで現れる始末。そんなヘルプに対しても、「僕はICUの環境が好きなんです!」とかなんとか、恥ずかしい返答をしてしまったと記憶している。

 その時、それまで黙り込んでいた女性の目がギラリと光った。ギラリなんてもんじゃない。メドゥーサの目だ。これがその後10年間、公私にわたってお世話になるツベタナ・クリステワ先生とのファースト・コンタクトだった……。

だますだます

 暑いですねえ。一番気温の高い時間帯に外を歩いたものだから、全身がでろんでろんになってしまった。しかも、今年のセミの声は暴力的でえげつない。困る。

 ブログ連載「僕と大学」が停滞している。せっかく佳境の4年生編まで来たというのに、残念なことだ。理由ははっきりしていて、この1カ月、さまざまな不測の事態に見舞われたからなのだが、それにしてもねえ。次回UPしようとしている記事の方向性で悩んでいるのは事実。ある人達との出会いを赤裸々に書いていいものやら、オブラートに包んだほうがいいのやら。とにかく、面白い方へと進んでいこうとはしていますので、楽しみにしてくださっている皆さま、どうか気長にお待ちください。

 こういうときは、単発の記事を軽やかにぽぽぽぽーんと放てばよいのではという結論に至った。公開できる範囲で日記でも書こうかと思ったが、日常がなかなかに悲惨で、公開できない範囲だらけ! そんなわけで、ここは一発、僕が苦手とする食べ物について書きたい。見事なまでに、誰も得しない情報ですね。

 僕には食べ物の好き嫌いがない。ことに気持ちのよい食べっぷりに関しては、食事の席を共にした方々から称賛の声を浴びるほどである。だが、そんな僕にも「出されれば食べる」程度の、テンションの上がらない食べ物があるので、要注意だ。

①レバー

②スイカ

③はっさくなどの種が多くて酸っぱい柑橘類

④豚の脂身

⑤そうめん

⑥舟和の芋ようかん

 ざっと挙げてみたが、こんなものだろうか。それぞれにそれなりの理由がある。

 ①レバーは苦手とする人が多いのだが、僕もその一人であることを認めたい。いや、体によさげなのはわかるけれども、あの臭みがどうもねえ。焼き鳥屋さんで串の盛り合わせが出てきたときには、みんなでワイワイ食べますが、自らの意思では絶対に注文しない料理の代表格。

 ②スイカを苦手な食べ物に挙げるだなんて、信じられない! あれはみんなが大好きな夏の風物詩でしょ! などという声が聞こえてきそうだが、その「みんなが大好き」という思想がどうも引っ掛かる。もちろん、甘くてフレッシュなスイカは素晴らしいと思うけれども、これぞ「出されれば食べる」の典型例なのだ。スイカを食べると、カブトムシの気分になり、げんなりしませんか。

 ③の柑橘類は、種が多くて酸っぱいというめんどくささが気に食わないのである。こちらが喜ぶものと思って、満面の笑みではっさくの類を突き出されると、苦笑いするしかない。僕は面倒事は好まないのだ。

 ④豚の脂身には確固たる嫌悪感がある。幼稚園の給食で出てきた、冷たい豚の何かの脂身が最高にマズかったのだ。噛み切ることも飲み込むこともできずに、涙目で吐いた記憶がある。あれは一体なんの料理だったのか。あの経験があったからこそ、僕ははっきりと言える。この世から駆逐せねばならぬ、忌むべきもの。それが豚の脂身だ。

 ⑤そうめんも挙げてみたが、この苦手なものリスト、なんだか夏の食べ物が多いな。まあいいか。いや、そうめん自体はどうってことないのだけれど、その昔、祖母宅で出されたそうめんにお中元の洗剤の匂いが完璧に染みついていて、食欲が失せた経験があるのだ。大人になってから気付いたのだが、そうめんの袋には「匂いのきついものとは一緒に保存しないように」との注意書きがある。繊細な食材は丁寧に扱ってこそ輝く。まあ、輝いたところで、そうめんの頼りなさは消えないのだが。うどん、そば、冷やし中華などのほうが良いなあ。

 ⑥舟和の芋ようかんに関しては、食わず嫌いの面もある。ちゃんと食べてみたら美味しいのかもしれないが、そこまでテンション高く挑める代物でもなかろうという気がする。僕には、この種の素朴なお菓子を好まない傾向がある。えーい、思い切って言ってしまおう。年寄り臭くて、どうもね。

 ウム。言いたいことを言って、ちょっとスッキリした。こうした「書く感触」を忘れないようにしよう。

 この暑さだもの。そして、出鱈目な世の中だもの。シリアスになりすぎず、だましだまし生きていくことが求められているような気がする。腐ったら負けだ。自棄になったら、おしまいだ。図太く楽しく生き延びようと思う。