志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と英語【第4回】

 すっかり春である。右の口内炎が癒えたかと思えば、左にも新しいのができ、ああ人生ってままならない。チョコラBB、もしくは我に塗り薬を。

 ここ数日、卒業式帰りと思しき親子連れを見かけたりして、季節の移り変わりのスピードを想う。この先、新緑を迎える頃までは落ち着かないものなんですよね。入学前後のソワソワには人一倍、敏感な性質なのだ。

 僕は入試における帰国子女枠なる制度とまったく縁がなかった。今はどうなっているのか知らないが、90年代初頭の大阪では、2年以上の海外在住経験がないと帰国子女とは認められなかった。「1年間日本にいなかっただけ」の僕は、普通に私立中学を受験して入学資格を得た。「英語もできるし、入試で便宜を図ってもらえるし、お気楽な立場よネー」なんて嫌な考えを抱いていた人も周囲にはいたようだが、大間違い。実に勝手なことを言う。

 勝手なことといえば、アメリカに旅立つとき、当時小5のクラスのみんなから寄せ書き的な文集をプレゼントされたのだが、「留学がんばって!」などと頓珍漢なことを書いてきた子たちが何人もいた。「留学とちゃうねん。親の仕事の都合で行くだけやねん」と何度言ってもわかってもらえなかった。「海外に行く=留学」と親が吹き込んでいたのだろう。無知もここまでいくと呆れかえるばかり。どう考えても、小学生が留学するわけがない。

 閑話休題。いわゆる帰国子女のなかには、日本に戻ってからコミュニティ内で浮いたり、いじめられたりといった事例も多い。僕が鈍感だっただけなのか、周りが温かかったからなのか、帰国後の中高で取り立てて窮屈な思いをしたことはない。それでも空気を読んで、「英語ができ過ぎないように」振る舞う必要がまれに生じた。たとえば、NIRVANA。日本で現在に至るまで流通しているのは「ニルヴァーナ」という表記であり発音だが、ネイティヴは「ナァーヴァナ」とある種のくぐもった声で表現する。僕も93年頃まではその「くぐもり」に倣って発音していたと思うのだが、カート・コバーンの死をきっかけに、同級生の間でNIRVANAという存在が発見されてからは、日本式に「ニルヴァーナ」と呼ぶことにした、はず。水面下でこの種の微調整を徹底したおかげで、高校に入る頃にはいい塩梅に「なんちゃってネイティヴ発音」が抜けた。

 たまに僕に「アメリカかぶれ」という烙印を押したがる輩も現れたけれども、何を言っておるのかという感じで眼中になかった。ただ、ティーンエイジャーの頃、自分の中の「アメリカ」を出し惜しみしてしまったのは不健全だったと反省している。学校や塾での英語学習以外に、もっと意欲的に英語を楽しむべきだった。

 唯一、洋楽を浴びるように聴いていたことが、リスニングやスピーキングの維持に役立ったといえるだろう。それこそ、風呂場で「Smells Like Teen Spirit」を鼻歌まじりに歌ったりして、親に叱られたこともある。マンションの廊下まで僕の変な声が響いていて、恥ずかしかったのだそうだ。……思い出した。僕は高1だったか高2だったかの春休みに初めて級友と一緒にカラオケに行くという経験をした(男子校なので、全員野郎ですが)。母校は校則が厳しく、カラオケボックスに出入りすることさえも確か禁止扱いだった。僕以外はカラオケ慣れしていて、尾崎豊を異様に上手く歌いこなす者までいる始末。さて自分は何を歌うべきかと悩んだ挙句、BON JOVIの「You Give Love A Bad Name(禁じられた愛)」を選んだ僕のセンスよ。当時はそういう曲を好むキャラだと認識されていなかったので、その場に居合わせた3~4人は驚くばかり。そこで歌の上手い尾崎氏が絶賛してくれたことが大きな自信となったのだ。

 日本語の歌はそんなに得意じゃないが、英語、特にアメリカ英語のロックの歌い回しはまあまあなもんだと自負している。「どこからそんな自信が来るの?」と訝し気な視線を送る人もあることだろう。大学3年から大学院修士課程にかけての4~5年間、軽音サークルでヴォーカルを務めていたことは以前どこかで書いたと思う。ここで温かい友人たちがチヤホヤしてくれたおかげで、初めて英語や歌唱力に対する確信のようなものを持つことができた。まあ、カラオケ含め、10年以上人前では歌っていないので、さぞ、か細く情けない声になってしまったことだろう。あれは一瞬の青春の輝きでしたね……。

 何が言いたいかといえば、自分が最大級に自分らしくあれる場所に身を置きましょうということだ。僕の場合は、それがたまたま音楽を介した場所だった。どんな境遇の帰国子女も一定以上の悩みを抱えているのだとお察しする。僕がアメリカ生活を経験した30年前と違い、現在はSNSをはじめ「距離を縮める」さまざまなツールがある。これらをフル活用して、喜びや悲しみを共有できる人を探すとよいだろう。それが簡単でないことは承知しているけれど、世界の広さはまだまだ捨てたもんじゃない。

 40過ぎてから余計に思うようになったことだが、僕はどう考えても中途半端な帰国子女だ。その中途半端さが武器でもあり、命取りにもなっている。同じような立場の人に手を差し伸べたいと常々思っているのだけれど、具体的に何ができるのだろう。一歩踏み出す勇気。そして何より、英語を舐めてはいけない。そんなことを考えながら、春を迎えます。

僕と英語【第3回】

 完全に暖かくなってしまった。春だ。卒業・入学シーズンだ。どうなんでしょう、この1年の目まぐるしさというやつは。

 ネットで本を注文することが増えた昨今ではあるが、相変わらず書店で紙の匂いを嗅ぐのが好きだ。先日、何気なく語学のコーナーをぶらぶらしていたら、平積みされたTOEIC対策本の数々がいやでも目に飛び込んできた。受験参考書もそうだけれども、あれだけ種類があったら、どれを手に取ったらよいのか混乱してしまう。ついでにお腹も痛くなってしまう。 

 人生で3度、TOEICを受けたことがある。初めて挑んだのは、就活が近づいてきた大学3年の頃。何の迷いもなく大学院進学を希望していた僕だが、その時は周囲の流れに乗ってみようと思ったんだろうな。魔が差した。テスト対策を一切やらずにお気楽な態度で臨んだら、まったく時間が足りず、最後の50問ぐらいが手つかずになってしまった。マークシートを塗りつぶす暇さえもなかったと記憶している。同学年の皆が就活モードへと「仕上げている」なかで、相当恥ずかしい思いをした。「就職するわけじゃないから、出題傾向がビジネス一本鎗のTOEICは気にする必要ないし~」などと甘い考えを抱いていた当時の自分をひっぱたいてやりたい。

 2度目と3度目のTOEIC受検はコロナ禍に突入する1~2年ほど前の話だ。初受検から15年ほど経ち、自主的に受けてみようと思い立ってのこと。思えば、僕の大学院生活は英語コンプレックスを増幅させるのに十分な期間だった。その呪縛が薄まってきた今こそ! と思い、今回はTOEICの攻略本を何冊か「読書」した。結果は思ったよりもたいしたことがなかった。2度目から3度目にかけて10点だけスコアアップしたが「10点だけかよ!」とのけぞった。それなりの年齢になり、相応の経験を積んだとはいえ、シビアなものである。

 この時期に出会った本のなかに、清涼院流水TOEIC(R)テスト300点から990点へ、「7つの壁」を突破するブレイクスルー英語勉強法』(講談社)がある。この中で彼が説く「ドリームキラー」との戦い方に今も励まされている。ドリームキラーとは、夢の大小を問わず、他人に対して「そんなの無理だよ!」とか「そんなことして何の意味があるの?」と決めてかかる人たちのことを指すのだという。彼らの中には親切心からそういう発言をする人もいるのだが、多くは無責任なだけ。余計なお世話なのである。こやつらを適切にやり過ごすことが本当に大事なのだと、僕はコロナ禍以降のある時期から強く思い始めた。自分の人生には自分でけじめをつけたいじゃないですか。たとえ身内や友人といえども、土足で踏み込まれてはならないゾーンってものがある。

 なんだか話がズレてしまった。大の大人が目標のスコアを定めて、それに向かって勉強するというのはどえらいことだと思うのです。さらには、決して多くはない時間をやりくりして何事かを成し遂げる尊さ。TOEICは、TOEIC用の勉強をしっかりとやらないと満足のいくスコアに到達できないように作られている。時間配分や出題傾向をしっかりシミュレーションしないと、頭からプシューと湯気が出る仕組みなのだ。

 人間の器は肩書で測れるものではない。ましてや、点数でその人の能力を判断できるものではない。そんなの、わかってるよ。つべこべ言わずに、迫力のある「しるし」を示すことが時には必要なのではないか。馬鹿馬鹿しい世の中を黙らせるためにこそ、武器の手入れを怠ってはならないのではないか。そんな思いが僕を日々の勉強(10分ぐらいだけど)に向かわせています。

 そう遠くない未来に、まずはTOEIC900点突破。そして950点、990点満点とステップアップできれば楽しいんじゃないかな。なんとなく、「楽しさ」を軸とするのがポイント。これじゃあ、現状、僕は900点には及ばないスコアですよと公言しているようなものだが、実際、そうなのだ。言語化できない、自己内の自信を数値化する――紆余曲折を経て僕が辿り着いた結論のひとつである。

 英語は「いつかできるようになりますように」と願っているだけでは、で き な い。できるようになるための努力を(知らず知らずのうちにでも)重ねていかないと、モノにはならない。フィーリングやセンスだけで、ある程度まではどうにかなるけれども、「どうにかなる」ことだけが目標なのか、常に自分に問いたいものである。

 なんだか、めっちゃカタい内容になってしまったなぁ。次回(たぶん最終回)では、もっとくだけた中身を目指します。最後にひとつだけ。今あなたが学生なら、実用書、ビジネス書、語学書をもっと読むべきだし、社会人なら、思想書、小説、詩歌などに触れるべきだと本気で思っている。時間は有限。実生活のなかで足りないものを積極的な読書によって補いたいものです。

 

僕と英語【第2回】

 2月が終わり、3月になった。3月が終われば4月がやってくる。輪廻転生。色即是空。焼肉定食。卒業シーズンになるとうっすら思い出すのが、浪人時代のことだ。この辺の時期については「うっすら思い出す」に留めるのがコツで、うっかり「じっくり思い出す」ようになってしまったら、闇に飲まれるのは必定。いろいろあったもんなぁ……。

 おっさんになってしまえば、浪人時代の1年間なんてどうってことないのだが、多感だったあの頃は、本当に毎日いじけて暮らしていた。高1までは英語を軸としながら誤魔化していたけれども、いざ文理分けという段になって、理系クラスに入ったのが大間違い。数学も理科も得意でないくせに、見栄を張るからこうなる。暗黒時代の鬱屈をこの場で吐露してもつまらんので、せめて希望のあるお話を。

 僕の受験期における数少ないポジティヴな要素が駿台予備学校(関西)の表三郎先生の英語の授業だった。表先生の指導の肝は「ポスト構文主義」に則り、英文を「前から訳す」こと(こんなふうに、かいつまんで説明できるものでもないが)。先生の哲学については、名著『スーパー英文読解法』(論創社)をお読みいただくのが最善策だろう。ここに書かれていることは、受験生というよりも大学生以上になってからのほうが役立った。あらゆる意味で、徹底的。僕は浪人の1年間、この本(上下巻)をノートに手書きで丸写しすることに費やした。ちょうど家庭内にも暗雲が立ち込めていた時期、それはもう、祈りにも似た行為だった。浪人時代を含め2~3年間、彼の独特の講義を受けたことは、自分の読み書きの下地を作るうえで非常に大切なプロセスだったのだと思う。

 僕は良くも悪くも日本的な受験英語に毒されておらず、たった1年の米国生活で得たフィーリングだけで10代を過ごした。単語やイディオムを丸暗記することが大嫌いだったため、受験期にはどんどん周りに追い抜かれていった。でも、あれはあれでよかったんだと思う。表先生の刺激的な話術を浴びて身につけたのは、クリティカル・シンキング、つまりは批判的思考である。この視点は大学に入ってからおおいにプラスとなった。

 僕が文章を書く際に心がけていることは、ただ一点、論理的であることなのだ。これは、どんなにエモーショナルな文章を書く際にも言えること。ただし、おっさんになってからは、論理からはみ出したもののほうが面白いということに気付いたんですけどね。

 表先生といえば、情況派の表。「裏あるところに表あり」なのだ。今となっては遠い昔話のようになってしまった感もあるが、学生運動盛んなりし時代の左翼の大物なのですね。「なのですね」って言い方もどうかと思うけれども。僕はべつに思想的にかぶれることもなく、そもそも先生の講義自体に変な偏りがあったわけでもなく、すくすくと知識教養を吸収したのだった。とにかく、先生には体の内側から湧き出るカリスマ性があった。

 表先生の講義と著作がなければ、僕は卒論のテーマにバフチン(ロシアの文芸学者)のカーニバル論を選ぶことはなかっただろう。卒論のタイトルは『バフチンにみるテクスト概念の拡張とその再解釈』……だったかな? だったよな? 大学で学んだことさえも遥か昔のことのようです。この主題がその後かたちを変え、笑いや道化の研究へと至るのだから、面白いものだと思う。

 高校時代の晩年は本当にクソみたいに嫌な時期だったけれども、強烈な出会いによって道が開けた季節でもあった。大事なのは、相手が誰であろうとも、どんな肩書を持っていようとも、好奇心を常に開いた状態にしておくことかと。ちなみに、『スーパー英文読解法』を「写経」した人で物書きにならなかった者はいないという。果たして僕は物書きになった。すべては英語によって導かれた道だったんだな……。

僕と英語【第1回】

 寒い、眠い、体力がない。気力はあるが、レスポンスが悪い。そんな2月でした。ボヤボヤしている間に、今月も終わってしまう。頻繁に更新する意志があっても、意志だけではブログは書けない。毎日のようにこまめに発信を続ける人のことを心底尊敬する。書いては消し、書いては消ししながら、ようやくここまで辿り着きました。

 まあ、別にのほほんと過ごしていたわけではなくて、それなりに課題が山積みなのであった。実は去年の春あたりからガッツリ英語を使った仕事をしていて、その作業にようやく慣れてきたかなというところ。察しのよい方はすでにお分かりだったと思うが、なかなか物書き一本でやっていくのは厳しい世の中でして、僕も例にもれず最低限のなりわい的なものをやっていかねばならない。ねばねば。

 いかん、このままだと暗い話になってしまうな。確定申告の時期は、どうにもむずがゆくなる(悪いこと何一つしてないのに!)。フリーランスの物書き業についての思うところはいずれお話しするとして、近頃、急に使用頻度の増えた英語のことをちょっと書いておきたい。

 小5から1年間アメリカに住んでいたし、大学と大学院は日本にいながらにして日常的に英語が聞こえてくる環境だった。傍から見れば十分に恵まれた背景を持っているのだが、この点がコンプレックスの源といえる。僕は皆さんが思うほど英語の能力が高くはない。そして、決して低くはない。このジレンマにずっと悩まされてきた。

 多感な時期に現地校で生活したことは確かにプラスの経験なのだが、2~3年英語圏で暮らしていた帰国子女と比較すれば、英語力の差は歴然としている。これが5年以上の海外経験、あるいは「高校まで日本にいませんでした~」系の方々と対峙した場合、差は歴然どころか、月とすっぽん以上の隔たりを感じてしまう。残酷なものなのです、語学というのは。

 高校までは英語が得意科目だったのだけれど、大学入学後は「THE 有象無象」的な位置に落ち着いてしまった。なにせ周りは英語ができて当たり前の人たちばかり。1~2年生の頃の英語のクラスはそれなりに気合いが入ったものだが、それ以降はやる気なしと言っても過言ではない。というか、どうしても越えられそうにないネイティヴ・レベルの壁を感じ、スネていたんでしょうな。若さゆえのこじらせであった。

 卒論は必要に迫られて英語で書いたのだが、思い出したくないほど硬直した文章だったと思う。約10年以上に及んだ大学院生活では、研究分野の関係で(?)日本語力を磨くことを主眼としていた。日本語の美しさというと聞こえは良いのだが、要するに日本語に逃げていただけであって、英語をはじめとする外国語への関心や憧れがどんどん薄れていったのがこの時期。卒業後に海外で揉まれて大活躍している友人たちもいるというのに、なんてことでしょう。

 自分はいったい、何ができるというのだ? 英語にまつわる僕の長所と短所を簡単に挙げると、こうなる。

 

【長所】

・1年の海外経験にしては、わりと綺麗に米東海岸風の発音をする。

・カラオケやコピーバンドで英語詞をそれっぽく歌える。

・ざっとではあるが、英語で調べ物ができる。

・必死のジェスチャーを交えながらであれば、道案内や居酒屋での会話ぐらいはできる。

・自分の英語の「できなさ」がわかる。

 

【短所】

・気の利いたとっさのひと言が出てこない。

・知っている単語や熟語が少なく、「翻訳できます!」と自信を持って言えない。

・くだけた表現(スラングとか)をまるで知らない。

・すごい端折った通訳ならできるが、同時通訳みたいなことはできない。

・度胸がない。

 

 とまあ、自分の能力を整理してみて思ったが、「できないことはできない」とか「上には上がいる」と自覚しておくことは非常に大事ですね。思えば、僕は小学生の頃から、身振り手振りでどうにかしてきたタイプだった。受験勉強というものがとにかく嫌で、真面目に単語帳(「ターゲット」や「DUO」など)を覚えた経験がないのだ。おっさんになってから自発的にTOEICを受けてみてわかったのだが、語学に関しては、粘り強い勉強がどうしても必要になる。巷に溢れるTOEICスコア高得点者って、実は並々ならぬ努力をされているんだなと痛感する。ちなみに僕のTOEICスコアは微妙すぎて「お……おう……(頑張れよ)」という反応が返ってきそうなので割愛。

 かつては英語を愛していた。大人になったら英語で十分に意思疎通ができて、アメリカ時代にお世話になった人たちに「やあやあ」とか言いながら恩返しができるものだと思っていた。なんでしょう、このていたらくは。僕はなんだか遠い地点に放り出されてしまったような気がする。

 コロナ下で僕がやり始めたことのひとつが、毎日少しずつでも英語に触れることだ。それがまさか仕事に繋がるとは思ってもみなかったけれど、丹念に言葉と向き合っていると、脳が悦ぶような瞬間がある。

 いつか彼方で叶えたい目標は、通訳なしで海外アーティストにインタビューすることだ。というか、僕はそもそも、いまだに海外アーティストに取材したことがないのだった。まずは、その取材当日の段取りを押さえることから始めないといけませんな。

 この記事を書いているうちに、英語にまつわるあれこれを思い出してきたぞ。長くなってしまったので、次回以降のネタとしようと思う。

こまめに水を

 なんでもいいから、まめに発信してみようと思う。分泌のごとく文筆しないとね。生きた証を刻んでいかねば、すぐに忘れ去られてしまうぞ、と。

 先ほどまで、NHKで『映像の世紀 バタフライエフェクト』の「ブルース・リー 友よ水になれ」を観ていた。観る前から予想がついていたことではあるが、いやー、まー、楽しかったですね。僕はハタチの頃、初めて観た『燃えよドラゴン』にやられて、しばらくの間、目覚ましの音楽をあのテーマ曲にしていたぐらいなのだ(その前はロッキーのテーマだった)。正直に告白すれば、まともに観たブルースの映画って、これぐらいだと思うのだが、それにしても影響力は絶大だった。あのスピードとしなやかな動きはもちろん、僕が惹かれたのは彼の悲しげな眼だ。「なんちゅう表情をするの!」とテレビデオ(懐かしい)の前で声に出して驚いていたのが昨日のことのようです。

 僕は90年代に放送されていた元祖『映像の世紀』の大ファンなのだ。加古隆の音楽に導かれ、思春期の心に深く突き刺さった映像の数々は、大きな糧となっている(ほとんど忘れてますが)。しかし、ここ数年、ロクにテレビ番組をチェックしていなかったこともあり、『映像の世紀 バタフライエフェクト』なる新シリーズが2022年4月から始まったことに気付かず……。年明け一発目の「危機の中の勇気」という回をたまたま視聴して、そのストーリー展開の巧みさに涙し、「こりゃ、ちゃんと放送を追いかけなきゃなぁ」と思いを強くしたわけです。見逃した過去エピソード一覧には、やたらと”ロック”の文字が目につくのも気になる。絶え間なく再放送希望です。

 NHKといえば、そのほか、『舞いあがれ!』に『大奥』がアツい。いや、アツがっているのは僕だけかもしれんが、「映像の世紀」も含めてこの3本で1週間を回しているといっても過言ではない。

『舞いあがれ!』はだいぶ舞いあがった感が出てしまっているけれども、僕の第二の故郷とでも呼ぶべき東大阪が舞台なので、チェックを怠らないようにしている。笠巻さん役の古舘寛治が絶妙なんですよねぇ。あと、くわばたさんとぐっさんも巧い。うめづに行きたい。『大奥』はマァよくできている。原作漫画は2、3巻までで中途半端に読むのを放棄したし、これまでの映画版やドラマ版も観ていないので、僕に詳しく語る資格はない。だが、良いキャストを揃えたものだな! と毎回感心している。幾田りらの主題歌も非常にマッチしていますね。

 要するに、NHKプラスの見逃し配信のおかげで、文化的にいろいろと助かっているのです。皆さんも登録すると便利ですよ。受信料を払っておいてよかったなと思える唯一の事例かもしれない。NHKの厳選番組だけでもこんなに忙しいのに、アマプラやNetflixをも使いこなしている人たちって、どんな時間の使い方をしているんだろう? まさか、寝てない? 友よ、水になれ。今日は仕事以外のことで充実の疲れを覚える一日だった。さーて、水のように寝ますよ。

最近のもろもろ

 連日、ついに氷河期の到来かと勘違いするほど寒いっす。とはいえ、まあまあ元気でやっていますよ。何を隠そう、今年に入ってから、まだライヴに出かけていないのだ。このペースでいくと、年間10本も観られれば御の字かなという気分にさえなってくる。できれば月に2、3本は観たいのだけれど、「現状」を考慮に入れれば、いろいろと仕方がない。ただ、公演情報などは細かくチェックしており、それなりに計画も練っているので、暖かくなれば状況は好転するのではないかと。うん、多分。世界との新たな向き合い方をまだまだ調整中なのだ。Pで始まってAで終わるバンドの今の姿は是非観たいのだが、どうなることやら。

 先月は一体何をやっていたのだろう。ところどころ記憶が飛ぶくらい、日々の生活に追われていた? うーん、つまらん人間になったものだ。それなりに印象深い出来事もあったので、いくつか書きとめておく。

 

 まずは骨伝導イヤホンの導入。これはわが人生の潮目が変わったなと感じるイベントだった。オーディオテクニカのATH-CC500BTというブツです。使い始めは非常に違和感があったのだが、購入から2週間ほど経った今、なくてはならない装備品となっている。骨伝導といえばShokzなるメーカーが有名なんだそうだが、敢えてのオーディオテクニカ。理由は単純、会社名の響きがカッコいいからである。まあ、そんなことはどうでもよく、従来、有線のイヤホンなりヘッドホンを使っていた僕からしてみると、ワイヤレスって革命なわけです。さらには、耳の穴を塞いだり、頭を締め付けたりすることなく、「ながら聴き」ができるというのが、もう最高。宅配の対応や「ごはんよー!」と荒々しい声で呼ばれた際のレスポンスが非常に良好となりました。

 ここへ来て、なぜ骨伝導イヤホンを試す気になったかというと、年末年始に音声を扱う仕事(「音楽」ではない)を詰め込んだ結果、左耳の中が痒くなるわ、頭がボワンボワンするわで良いことが何一つなかったから。極めて繊細な音声と対峙する毎日であるからして、あまりにチープな装備だと太刀打ちできないのである。まあ、有線のそこそこの値段のイヤホンと比べれば、音質に期待はできないし、いちいち充電しないといけないのが面倒くさい。だが、これである程度の用は足りるので重宝している。しばらくは、状況に応じて2、3種類のイヤホン、ヘッドホンを併用しようという結論に達した。そうこう言っているうちに、愛用のヘッドホンのケーブルがものの見事に断線してしまったため、次なるブツを検討中。開放型で有線というこだわりは譲れない。初めてAKGに手を出してみようと企んでいる今日この頃である。

 

 1月31日締切の短歌研究新人賞(30首)に応募した。2012年頃から短歌を作り始め、毎月せっせと『短歌研究』と『角川短歌』に投稿しているのだが、どうにもこうにも、ねぇ? こちらの賞、惰性に近いような形でほぼ毎年チャレンジしているのだが、最終選考に残りそうな気配が微塵もなくて清々しい。わはは。僕は一首完結型(?)の性格なため、どうにも連作という形式に馴染めない。何年経っても、中途半端な形でしか短歌に関わっていないところが駄目なんでしょうな。ここ数年の収穫は、実は自分は短歌よりも俳句に向いているんじゃないかということ。なにしろ、俳句には季語がある、そのうえ、短歌よりも少ない文字数で済む。その俳句も、まことに中途半端な態度で臨んでいるような気がしてならないんですけどね。「本気」ということについて考えまくる毎日である。賞を獲るために創作をやっているわけではないが、欲しいよね、賞は。頂けるものならばね。

 

 そして、これまた自分にとって大きな出来事なのだが、新共同訳の『聖書』を約2年かけて通読することができた。旧約も新約も。1日1章という決して多くない分量が功を奏したのか、コロナ禍でズタズタになった自分の心にひとつひとつの言葉が沁み込んでいくような感覚を得た。なんでこんなことを始めようと思ったのかはわからないが、読み始めた時は相当弱ってたんだろうな。今回の通読ではっきり言えるのは、創世記、ヨブ記ヨハネの黙示録などの有名どころだけが聖書じゃないぞってことです、当たり前の話だけれども……。僕はべつにクリスチャンではないし、熱心な仏教徒というわけでもない。特定の宗教に寄りかからずに、ふわふわ生きている者ですが、おおいに勉強になった。この世には、信仰によって生かされている人がいるのだ。そのことを納得し、なんだか体の内側がほんのり暖かくなったのである。まあ、小学生の頃にYMCAのスイミングスクールに通い、中・高・大・院とキリスト教系の学校に身を置いたことは、まったく無駄ではなかったのかも。久々にマリリン・マンソンでも聴くかね。

 

 ぼんくらを煮詰めたような毎日ではあるが、水面下で初めてのタイプのお仕事を完了した。「え? 今までそれ、やったことがなかったの?」と驚く人もいるかもしれない。実はそうなんですよ。オファーがあった時はうれしかったなぁ。資料と格闘し、うんうん唸って言葉をひねり出すというスタイルが僕の性には一番合っているのかもしれない。情報解禁をお待ちください。何事も一歩ずつ。ご縁を大切に。今後はますます新しい可能性に好奇心を開いておこうと思う。

 

 ブログの更新および配信がどうしても真夜中になってしまう。たくさんの人に読まれたい欲望は強うござんすが、しばらくはひっそりと書きたいことを書くというスタンスでいいのではと思えてきた。というわけで、ぼちぼちやります。2月もキリリとよろしくお願い申し上げます。

2023年

 あけましておめでとうございます! 

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

というご挨拶はいつ頃まで有効なのだろうか。2023年の幕開けはまったく曜日感覚がわからない感じで進行中。僕の住む地域はずっとカラッと晴れているのがありがたいことです。

 これといった目標を立てることもなく1月上旬が終わろうとしているのだが、今年はあまり気合いを入れ過ぎずに、少しずつ前に進むことを心がけたいと思う。自分は意外とコツコツタイプだということにここ数年で気付いたので、その長所を活かしながら、己の仕事を究めてゆきたいです。そもそも、元気に暮らせていること自体が奇跡のようなもの。これまでの出会いに感謝し、これからの出会いに胸をときめかせる青年でありたい。

 4月には43歳になる。後厄も抜けて万々歳。青年どころか、正々堂々と、おっさんである。ここに来て、年老いる絶望よりも、年齢を重ねる楽しみみたいなものがわかりかけてきた。そう、まだ何も始まっちゃいないのだ。すべてがコロナ禍以前のように戻るとは思えないが、ある程度の勘を取り戻したうえで、従来になかった新スキルを発動させるのは可能とみた。ようやく、勉強というものが快楽になってきました。

 まあ、そんなこんなで、この決意表明のようなものも今月末にはすっかり忘れて通常運転になると思う。魑魅魍魎にからめとられずに、まっとうに生活しますよ、2023年。

 音楽を観たり聴いたりするセンスはちょっと鈍っているかもしれないが、読書の習慣は徐々に回復傾向。この年末年始に読んで感銘を受けた3冊を紹介したい。

①並木浩一・奥泉光旧約聖書がわかる本 〈対話〉でひもとくその世界』(河出新書

伊東潤・空木春宵・大槻ケンヂ長嶋有・和嶋慎治『夜の夢こそまこと 人間椅子小説集』(KADOKAWA

枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』(左右社)

 ①は新書という体裁でありながら、質・量ともにおそろしく濃厚な対話の記録。並木先生は僕の卒業論文および修士論文の指導教官、奥泉さんは大学および大学院の直系の大先輩なのである。それがどうした、という声も聞こえてきそうだが、このお二人がこういう”手に取りやすい形”で入門書を出されたことには大変な意義があるんですよ! もう、なんか、笑っちゃうぐらいに鮮やかな知性の応酬。(良い意味で)ICUの雰囲気に触れられる1冊となっております。特に「第四部 ヨブ記を読む」の読解には勇気を頂いた。スリリングな知に飢えている向きには必ずお読みいただきたい。

 ②は「万が一、面白くなかったら、どうしよう……」と思い詰めて、紹介が遅れに遅れてしまった作品集。水面下でこんなプロジェクトが進行していただなんて、まったく聞いてないですよ。それはともかく、もう、あのね! ハード・ロック・バンド人間椅子の楽曲から着想を得て、一個の小説を書きあげるという行為自体がどえらいことだと思うのです。どの作品も、人間椅子のことを知らない人が読んでも面白い仕上がりになっている。そして、各短篇に通底するのは青春の温かさだと僕は思った。この小説化の過程こそが現代日本文学と言える。

 ③は紙の本が大好きな人にぜひ手に入れてほしい本。1頁に1首という潔さが心地よいのです。ツイッターでも書いたけれど、「全」短歌集という点にじわじわと感動をおぼえた。2012年頃から短歌を作り始めた僕は、現在の「短歌ブーム」なるものに懐疑的なのだが、このタイミングで枡野さんの決定打が世に出たことが実に痛快。小沢健二の帯文といい、「特別栞 俵万智枡野浩一の往復書簡」といい、文章が巧い人の文章を読める幸せ。すでに、座右の書です。枡野さんは阿佐ヶ谷時代(すなわち30代)の僕に大きな影響を与えた1人なのだが、その話はいつか彼方で。 

 結果的に、日頃から非常に関わりの深い方々の本ばかり紹介してしまったが、新年だもの、これぐらい景気が良くなくっちゃ。5月の文筆家デビュー10周年に向けて、毎日少しずつでも書き、発信することをここに誓います。楽しく! 健やかに!