志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

僕と大学【第1回】

 本格的に新年度が動き出した。この歳になっても、4月特有の落ち着かなさが苦手だ。新しい環境に身を置くときは期待と不安が入り混じるもの。僕は入社式というのを経験したことはないが、入学式ならそれなりの数を見てきている。合言葉は勇気。これから本連載に書くことが、最初の一歩をなかなか踏み出せない人にとっての何らかの手助けとなれば嬉しい。

 このところ、僕の感情は静かにしかし激しく揺さぶられており、じっくりと思考する時間を確保しないと押しつぶされそうになっている。その原因が何なのかわかってはいるのだが、あまりこういう場所で公表することでもないし、何事かを発信するにしても遥か彼方で、ということになるだろう。闇に呑まれる前に、自分の歩みをしっかりと整理しておきたい。好奇心が健全に開かれていた時代を振り返れば、強く生きるヒントになるだろうから。

 大学という場を離れてから10年が経つわけだし、そろそろあの頃のことをちゃんと書いてみてもいいと思った。今なら客観的な距離を保って、濃密な日々を振り返ることができるはずだ。高校までの友人は20代以降の僕のことを知らない。物書きになってから出会った皆さんは、大学に生息していた頃の僕をご存じない。在学中に仲良くしてくれていたみんなも、大学生あるいは大学院生の志村の一部分しか知らなかったのである。まさに一期一会の織り成す物語。今回は家族にも言っていないようなことを書いていく覚悟を決めた。もちろん、特定の誰かに迷惑をかけない範囲で。

 

 国際基督教大学教養学部人文科学科卒業。

 同大学院比較文化研究科比較文化専攻博士課程修了。

 博士(学術)。

 

 著者略歴を要求された場合、僕はこう書くようにしている。文筆業を始めた頃は名刺の裏にもこのプロフィールを書いていたのだが、さすがに今はやめてしまった。ただの自慢、と受け止められることのほうが多いように思えたからだ。さらには色眼鏡で見られることにもつながってしまう。「ICUなんですね、英語できるんですね」と勝手に解釈される危険もある。英語はともかく、僕はいつだって、僕という個人を見てほしい気まんまんなのだ。

 つい最近までICUの文字を週刊誌の吊り広告などでよく見かけたが、ようやく適度に落ち着いたようである。あのフィーバーぶりは何だったのか。僕の口から言えるのは、「ICU出身者を見るときは、その人個人の能力や性格を見てください」という点に尽きる。実に多種多様な個性が集い、大学という集合体(しかも小さい)を成しているのだ。これは入学時におおいに戸惑う部分でもあったけれど、だからこそ豊かな出会いが頻繁に訪れたのだろう。誰が言い始めたのか知らないが、「Isolated Crazy Utopia」(孤立したキ〇ガイの理想郷)なる略称が代々伝わっている。在学中はこの字面を見るたびに、なんとセンスがなくこっ恥ずかしいことか! と悶絶していたのだが、おっさんになった今となっては、言い得て妙、としか言いようがない。

 そんな「International Christian University」(国際基督教大学)の何に期待して入学したのかと問われれば、ずばり「大学」の部分だった。なんでもできるリベラルアーツ。迷える若者にとって自由度の高いカリキュラム。そして僕が大学入学後にやりたかったのは、思う存分、本を読むことだった。

 僕は1年の浪人期間を経て2000年にICUに入学した。高校生の頃からこの大学に狙いを定めていたわけではなく、願書の締切ギリギリまでアウトオブ眼中(言い方が古いな)だったことを告白しておこう。予備校の国公立理系クラスで、誰に頼まれたわけでもないのに医学部を志望。理想と現実のギャップの大きさを知り、盛大に挫折し、無為に過ごす日々。そんなある日、「これぞ理想の大学!」と友人が興奮を隠さずに見せてきた入学案内のパンフレットが運命の出会いだったのだ。そこに紹介されていた学びの内容があまりにも魅力的で「自分はこの大学に呼ばれている」という気さえしたものだ。そして一番の決め手は、森に囲まれ、どこまでも芝生が広がるキャンパスだった。入試の下見(といっても本番前日だが)で初めて大学構内に足を踏み入れたときに感じたのは、僕が愛した「ハーシー」の風景そっくりということ。なんだか胸の真ん中あたりに火がともった気がした。

 他のいくつかの大学は落ちたが、大本命だけには受かった。合格の報せを受けたときは(レタックスだったかな?)、職場にいる父に電話をかけ、ワンワン泣いた。この辺のメソメソ話は、その頃いろいろあったんだなぁということで割愛。大事なのは、第二志望の学科に受かっていたことだ。人文科学科。入試ギリギリまで理系クラスに在籍していた自分にとって、未知かつ甘美な響きである。そこが何をするところなのかよくわかっていなかったが、たぶん己のやりたいことはここら辺にあるだろうという見当のつけ方がお見事と自画自賛してしまう。ちなみに、第一志望は国際関係学科だった。今にして思えば、もっとも行かなくてよかった学科だなぁ。まあ、その辺の話もおいおい。

 こんなふうに、ある種の宿命に導かれ、大学生活が始まった。東京での初めての一人暮らし。4月生まれの僕はハタチになろうとしていた。

 連載第1回というよりは「第0回」のような趣きになってしまったが、まあよかろう。書きたいことは、書いていくうちに浮かぶと思う。気長にやりましょう。次回は大学1年から2年あたりの歩みを振り返ってみたい。

ありがとうございます。

 4月9日は43歳の誕生日でした。たくさんのお祝いのメッセージ、ありがとうございます。こんなふうにSNSやブログで何度も書くと、「祝え祝え」と言ってるみたいでどうかと思うのだが、まあいいでしょう。これからは積極的に自分に甘くしてゆく。激甘のスウィート・エモーションだ。

 ほんと、油断も隙もないというか、一難去ってまた一難というか、日常がワンダフル過ぎるのだけれど、僕にはいくつか日々のルーティーンがあって、「ああイカンな、心が乱れてるな」と思ったときの慰めとしている。たとえば、プロ野球選手名鑑。千々に心が乱れたときにパッと取り出し、1球団分限定で隅から隅まで読んでいくのだ。背番号が3桁の育成選手のものすごくどうでもいい情報にほっこりしたりしているうちに、いつの間にか気分が落ち着くのだから、不思議。

 語学や世界史のミニ学習もいい。5分から10分の短い時間だが、人類の営みに想いを馳せていると、自分の悩みがちっぽけなもののように思えてくる(いや、全然ちっぽけじゃないんだけれども)。去年までは新共同訳の聖書を少しずつ読み進めることにも凝ったが、そのかわりに未読のプルースト失われた時を求めて』を蟻の歩みのように味わっている。どんなに大きな山でもちょっとずつ崩していけばなんとかなる。これはコロナ禍の3年間で学んだ真理だ。

 Twitterにも書いたが、43歳の目標は「ますます正気を保つ」にした。何をやるにしても、焦ったり錯乱した状態ではうまくいくはずもない。まとまった睡眠をとり、音楽・映画・読書に貪欲であること。要するに、学生時代の生活の核となっていた部分をこの中年の体内に取り戻すのだ。あまり気合いを入れないで、楽しくやるのがポイントか。常にいい顔をしていたいですね!

 1年前はどんな目標を立てたのだろう。完璧に忘れている。そもそも目標など立てなかったのかもしれない。「自分の思い描いた6割でもできれば立派なもんだよ」とは大学時代の恩師の教えである。もっと明るくカイホウ的な自分になってみせます。決意表明だけは得意な僕ですが、ブログもnoteも一層の充実を図りますので、よろしくお願いします。

僕の好きな春の歌

 家の周囲は葉桜が増えてきた。満開の桜も美しいものだが、ピンクに緑の混ざったこの趣きにもうっとりする。真新しい制服とカバンの子たちが緊張の面持ちで移動する姿もよい。春は別れと出会いの季節。何回経験しても、この時期特有の甘酸っぱさからは逃れることができない。自分は今でも青春真っ盛りということなのだろうか。

 それはさておき、「春を迎えると頭の中で勝手に鳴りだす曲」が僕にはいくつかある。季節の変わり目というのは、どうしても落ち着かないもの。ましてや、人の出入りの激しい春先は、己を鼓舞したり癒したりといった調整が必要になってくる。こう見えて、わたしゃ「緊張しぃ」なのだ。

 先日、CDTVの特番をチラチラ眺めていたら、頭がぽわぁーっとしてしまった。90年代後半から00年代序盤にかけてのナンバーが自分の血肉となっているのだと再確認。良質のメロディ、鮮やかな色彩、豊かな詩情……このあたりが僕にとってのキーワードとなりそうだ。春を主題にした愛聴曲は山ほどあるのだけれど、今の自分の気分に素直になってみると、こんなセレクションになる。厳選の3曲。

 

松たか子明日、春が来たら

 1997年3月リリースの松たか子のデビュー・シングル。ということは、高1の春休みから高2の始まりにかけて、よく聴いていたのか。自分史上、最もパッとしない時期の幕開けを飾った歌ということになる。当時、旬も旬のトップ女優だった松たか子。その彼女が歌を出すなんて! しかも、その歌が上手いだなんて! 「この人はお芝居から何から、なんでもできるんだな」と高校生らしい素直な感想を抱いた楽曲だ。今聴いても、松たか子の伸びやかな声と表現力の高さに感心する。淡い恋心とは無縁の男子校生活を彩った、瑞々しい名曲です。

 

Hysteric Blue「春~spring~」

 1999年1月リリースの、非常に思い入れが強い歌。センター試験に失敗し、浪人が決定した頃の楽曲である。僕は98年の10月から1年くらいの記憶が著しく欠落している。というのも、最愛の祖母が倒れ、介護をはじめとする残酷な現実に生まれて初めて向き合ったのがこの時期だからだ。目の前は真っ暗、神も仏もあるもんかと沈む病院の帰り道、ファミマで流れていたのがこの曲というわけだ。

 キラキラのポップ・ミュージックとはまさにこのことを言うのだと思う。愛すべき旋律に感受性豊かな歌心。「こういう夢ならもう一度逢いたい 春が来るたびあなたに逢える」今でもこの一節を聴くと、自然と涙が溢れてしまう。僕の一番辛かった時期を支えてくれた楽曲のひとつです。

 とにかく、同い年の人がこんなにも素晴らしい曲を世に放っていることに勇気づけられたのだった。けっこう長い間、ヴォーカルのTamaさんが作った曲だと勘違いしていたのだが、作詞・作曲はドラムのたくやさん。現在、楠瀬拓哉さんとして多方面で活躍する彼には、清春さんのライヴ現場などで何度も顔を合わせることとなった。人生、何が起こるかわからない。

 

AEROSMITH「Jaded」

 春をテーマにした曲なのかと問われれば、そんなこともないだろう。本曲を収めたアルバム『JUST PUSH PLAY』が2001年3月発売なので、お許しいただきたい。サビの「My my baby blue」の部分を聴くと、いつでも胸の真ん中あたりがぽや~んと温かくなる。大学生活の1年目が終わり、おおいに調子に乗っていた季節の名曲だ。

 お気に入りの曲とはいえ、AEROSMITHのライヴで観たときはそんなにグッとこなかった。ところが、2017年4月に武道館で味わったスティーヴン・タイラーのソロ公演でのパフォーマンスが絶品で、「ああ、僕はこの曲を愛してるなぁ!」と感じ入ったのである。バンド・メンバーには女性奏者もいて、スティーヴンの華やか極まりない魅力に加えて、春爛漫といった空気が実に心地よかったのを覚えている。直前まで行こうかどうか迷っていたのだが、経験上、そういう逡巡のある公演ほど素晴らしいものになったりするものだ。

 

 その他、SPEED「my graduation」、GLAY「春を愛する人」、スピッツ「春の歌」、いきものがかり「SAKURA」など、挙げだすとキリがありませんね。一時期、「黒歴史」という言葉が流行ったけれども、できればなかったことにしたい過去ほど、時が経てば大きな財産となっていることに思い当たる。失敗したって、いいじゃない。毎日が新生活応援フェアですよ。春の空気をしっかり吸い込んで、明日も豊かに生きよう。

3月の終わりに観た映画

 3月の終わり、少し長めの帰省を敢行した。こんなに実家でゆっくりしたのは何年ぶりだろうか。美味しいものを食べ、よく眠り、これまでの出来事を語り合う。生の横溢。つまりは、春。僕はつくづく家族や友人に支えられている。一瞬でも感謝を忘れると、地獄に落ちると思う。

 大阪開催のLOUD PARKが目的ではあったのだが、スキマ時間に未鑑賞の映画を一気見できたのがよかった。全作品、信頼する複数の友からのお薦めだ。僕には「これは良いよ!」と教えてもらったものを必ず観たり聴いたりする習性がある。たとえ何年かかっても鑑賞の約束は果たすので、皆さま奮ってお薦めください。

 

※ここからは『アメリカン・ユートピア』『朝が来る』『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』の話になります。ネタバレには配慮して書いたつもりですが、見たくない内容が目に留まった場合、薄目で読み進めるなどご対応ください。

 

 まずは『アメリカン・ユートピア』。公開時、周囲がやたらと騒ぐものだから眉唾物だなぁと考えていたが、やはり凄かった。何が凄いって、人間の体の表現力。舞台芸術を映画として記録することの意義がここにあると感じ入った。デイヴィッド・バーンという人のことをあまり知らなくても(むしろ知らないほうが)楽しめる。序盤の独特の間合いをつかめば、あとはユートピアが広がるのみ。知的なユーモアを好む向きも満足することだろう。

 次に観たのは、辻村深月 [原作] ×河瀨直美 [監督]の 『朝が来る』。非常に深刻な内容のため、万人にはお薦めできない。だが、ある瞬間に訪れるカタルシスのためにも、できるだけ多くの人に観てほしい。そんな静かな迫力に打ちのめされたわけである。そもそも原作の大ファンなのだけれど、辻村が描く残酷な現実と慈愛を見事な解釈で映像化した河瀨の手腕。水面がきらきらと光り、桜が風に舞うその一瞬の美をずっと眺めていたくなる。配役も素晴らしく、特に浅田美代子の演技に痺れた。ああいう優しい年配女性、いるもんなぁ。

 ここからは「シン」シリーズだ。あれだけ話題になったにもかかわらず、まだ観ていなかったというポンコツぶり。というか、僕の映画鑑賞の習慣は大学の学部時代がピークだったように思う。20代後半は研究のために能・狂言・歌舞伎などを追いかけることに必死で、そこにライヴハウス通いが加わったものだから、スクリーンと対峙する時間など捻り出せるわけもなかった。……なんだか話が逸れてしまった。

 公開順に観るのがよかろうと思い、1本目は『シン・ゴジラ』を選択。この作品のおかげで「シン」の文法のようなものを体得した。地上波初登場時にTwitterのTLが盛り上がっていたが、なるほど、同時刻にみんなでワイワイ楽しむのが相応しい。僕はゴジラの造形(どの形態も!)にいまいちノレなかったものの、石原さとみの誇張イングリッシュに感動を覚えた観客の一人である。その他、政府筋の人間模様にもグイグイ引き込まれた。単純に迷惑だよなぁ、あんなに凶暴でデカいものが暴れたら。

 この直後に観た『シン・ウルトラマン』のほうが僕の性に合っていたようだ。子供の頃に再放送で鑑賞した初代ウルトラマンの興奮が蘇る。と同時に、2020年代ならではの視覚的な魅せ方が備わっているように感じた。映画の尺の中にテンポよく印象的な敵(という呼び方が正しいかはわからんが)を登場させている点もうれしい。こちらもキャスティングが絶妙で長澤まさみ長澤まさみしていた。ここまでの全作品をアマプラで鑑賞できたのは幸い。非常に便利な時代になったものです。

 さて、こんな流れで観た『シン・仮面ライダー』なのだが、ここ数日の映画熱はすべてこれを観るための序章に過ぎなかったのではないか。僕は小学校低学年の頃にリアルタイムでBLACKとRXを楽しんだ世代で、平成ライダーはおろか、古典的なライダーに関しても基礎の基礎ぐらいの知識しかない。そんな自分でも「これは近年のベスト映画やで!」と鼻息を荒くするくらいには刺激を受ける内容だった。アクション、ストーリー、音楽、カメラワークなど、どこを取っても超エンターテインメント。日本に良いところがあるとすれば、こういう情緒だよなぁと変な納得の仕方をしてしまった。いろいろ書きたいところだが、これから観る人の楽しみを奪ってはいけないので、ひと言ふた言に留めておこう。浜辺美波の圧倒的造形美、そして西野七瀬のイイ味。予告編を観てときめいた人は是非劇場に足を運んでほしい。赤いマフラーを巻きたくなるし、バイクが欲しくなること請け合いだ。

 

 公開から時間が経つと、周囲の評価などを気にせず、いい塩梅に作品に没入できる。また、事前に情報を仕入れ過ぎないことも大事なのかもしれない。意外なキャストが思わぬところに登場していることをスタッフロールで知る。これもまた映画の快楽じゃないですか。

 今よりもっと若造だった頃、僕には集中的に映画を観ていた時間があった。あれから月日は流れ、怠慢だけが蓄積されていった。やはり、好きなものから離れることはできない。40代前半だからこその映画との向き合い方だって、可能なはずだ。言い忘れたけれども、「シン」3作は竹野内豊のカッコよさが肝のような気がしてきたぞ。ああいうふうに歳を重ねたいものです。そもそものヴィジュアル的基盤が違いすぎますがね。

大阪でLOUD PARK 2023を観た~FOR PANTERA

 Twitterでもちょこっと書いたように、LOUD PARK 2023の大阪会場に行ってきた。6年ぶりの限定復活(しかも秋ではなく春)となったこの催し、僕は並々ならぬ思い入れがあるのだ。2006年の初年度から2017年の最終回にかけて皆勤賞だったのが秘かな誇り。毎回心揺さぶられるドラマがあり、魅力的なアクトが登場し、友人の輪が広がる。そんなメタルの快楽を思う存分味わうことのできる貴重なお祭り。しかも、あのPANTERAがヘッドライナーとあっては参加しないわけにはいかない。

 LOUD PARK前身フェスにあたるBEAST FEASTには行ったことがない。つまり、PANTERAを観るのは生まれて初めてなのである。ヴィニー・ポールダイムバッグ・ダレルの非凡な兄弟による神懸かりの音を浴びることは叶わなかったが、チャーリー・ベナンテとザック・ワイルドですよ! 代役という言葉は用いたくないぐらいパーフェクトな布陣だと思った。そして何より、友情と敬意を想う。

 会場となったインテックス大阪に足を踏み入れたのは、2005年のSUMMER SONIC以来ということになる。帰省のついでにNINE INCH NAILSSLIPKNOTDEEP PURPLEなどを観たのだそうだ。コスモスクエア駅から会場までの殺風景な道のりにドン引きしたけれども、いざ現地に着いてみれば、「あっ。幕張じゃなくてこっちを選んでよかったかも」と思うほどにはホッとした。場内スペースが適度にコンパクトだったわけである。大阪中心部からのアクセスもそれなりに良好なので、首都圏における「幕張遠いよ問題」に悩む人は、今後この手の選択肢を考えてみてもよいかもしれない。

 今回は物販はパス。今回は、というより、ここ数年は加齢による体力の限界を感じているため、ライヴが始まるまではなるべく消耗しないようにしているのだ。20代の頃などは始発に乗って物販列に並んだりしていたものだが、今思えば、あまりに非効率的かつクレイジーな所業だったと猛省している。会場に入ってから、横目で残りグッズを確認するぐらいのことはしたけれども、目をつけていたザックTシャツをはじめ、ほぼすべての種類・サイズが売切だった。当然といえば当然か。グッズを買うには気合いが要るのだ。

 話を戻そう。ここからは、各アクトを観て感じたことを綴ったメモを公開したい。レポというよりはメモですね。ネタバレなどを気にされる方はご注意を。

 

■BLEED FROM WITHIN

 スコットランド出身のバンドなのだそうだ。恥ずかしながらノーマークだったのだが、ビートの小気味よいメタルコアだと思った。「メタルコアってどんな音楽?」と問われたら「こういうやつです」と引き合いに出したくなるような音像。1番手だというのに、ブロック内には人がすし詰めである。MCがすべっていた点はご愛嬌か。

 

STRATOVARIUS

 この手のフェスにおける貴重な存在である。彼らの登場により、ステージが一層LOUD PARKらしくなった気がする。ただ、メロディが大切なバンドであるにもかかわらず、僕の立ち位置では終盤までギターとキーボードの音が埋もれがちだった点が残念。「Black Diamond」と「Hunting High And Low」の美麗さはいつ観ても、さすが。欲を言えば「Speed Of Light」を聴きたかったが、欲張りすぎはよくない!

 

NIGHTWISH

 これぞシンフォニック・メタル。壮大オブ壮大。もはや、楽曲がどうとかいう次元ではない。バックに流れる映像も非常に凝っており、ヨーロッパで絶大な人気を誇るという事実にも頷ける。楽器隊のアンサンブルも素晴らしいのだけれど、あの美声。全曲を披露し終えてからのカーテンコール的な演出の後ろに「通天閣大阪城梅田スカイビル空中庭園)」という大阪三大建築(?)の画像がデデン! と大写しされたのには笑った。何を根拠にあのセレクションに至ったのだろう? 幕張ではどんな建物が選ばれたのか気になるところ。

 

■KREATOR

 ここから更にLOUD PARKらしい雰囲気に。ステージ両サイドには大槍で串刺しにされた人形……? とにかく物騒なオブジェが設置され、邪悪な空気が場内に広がっていく。いつぞやのスラドミで観て興奮した記憶はあるのだが、フレデリク・ルクレール加入後の布陣を観るのはこれが初めて。曲が始まった瞬間にスラッシュ・メタル狂の観客のスイッチが入るのがわかった。たっぷりのパイロに加え、銀テープが2回も舞う演出も見ごたえがあった。自分の想定以上にビッグなバンドだったんだなと再評価。

 

■PANTERA

 「PANTERAを観たことがある人生にしたかった」というのが今回LOUD PARKのチケットを取った理由だ。DOWNは2回ほど観たことがあるし、なんならコロナ禍直前のフィリップ・アンセルモのソロも観た(あれはなんだかだらしがなくて、良くなかった……)。ヴィニー・ポールに関してはHELLYEAHのみ体感している。でも、そんなの関係ない。僕が観たいのはPANTERAによるPANTERA楽曲の演奏だ。オリジナル・ラインナップによる演奏は叶わなくなってしまったが、レックスのベースを初めて目に焼き付けることができるのは嬉しい材料。

 結果はどうだったか。これがもう、「知らない曲はない(そりゃそうだ)」と大興奮してしまうようなセットリスト。フィルが終始ゴキゲンで、事あるごとにオーディエンスに感謝を述べていた姿が印象的だった。レックスは現在のX JAPANでいうところのPATA的なポジションと見た目だよなぁなんて思いながら、しみじみとしてしまった。チャーリーの技量はタイトだし、ザックはちゃんとザックのアクションをしていた。やや厳しめにいえば、ダイムバッグ・ダレルの音というよりは、ザックのアイデンティティを損なわないような音だったかと思う。だが、そんなのは非常に細かいことで、PANTERAという屋号の持つ重みをしっかりと継承してくれた心意気に拍手を送りたくなった。

 

 とまあ、こんな感じだったのです。今回の大阪会場では、ブロック指定により観覧エリアが制限されていたけれども、僕のいたB4エリアではそれほど深刻な問題は見受けられなかった。ただし、様子のおかしい暴れ方をする輩はどこにでもいるもの。モッシュの意思のない人を引きずり倒すタイプのモッシュ扇動者はKREATORに串刺しにされればいいと真剣に思った。楽しみ方は人それぞれでいいと思うが、他者の楽しみ方を侵害してはいかんよ。

 本日は幕張にて、「フルサイズのLOUD PARK」が開催されている。CARCASSやAMARANTHEやH.E.R.O.など、大阪で観られなかったことは残念だが、友人たちのお土産話を楽しみにしておこう。やはり、メタルのお祭り会場で浴びるあの音圧は、言葉では表せないぐらい格別なのだ。

 

 ドサクサに紛れて言ってしまうと、大学の軽音サークルでのデビュー戦、PANTERAのコピーバンドでヴォーカルを務めたのがちょうど20年前のこと。セットリストは①Mouth For War ②Fucking Hostile ③Cowboys From Hellだったかな。歌唱スタイル的にも、見た目的にも、「そういうキャラじゃない」のに、我ながらよくやったと思う。あそこで勇気ある行動を選択したからこそ、その後、飛躍的に友達が増え、今に至るのだ。人生ってどう転ぶかわからない。重要なのは愛と敬意ですよ。しばらくはPANTERAのオリジナル・アルバムを片っ端から聴き込もうと思います。 

ぽつりぽつり

 WBCで世間が浮かれている間に、冬の空気はほぼ姿を消し、東京では桜がぶわっと咲くほどになった。ぼんやりしていると、無駄に年をとっていきそう。先日、大江健三郎が亡くなり、ああそういえばと様々なことを思い出した。

 僕は大江の熱心な読者というわけではないし、主要作品(その中でも限られた作品)ぐらいしか読んだことがない。や、威張ることではないけれども。しかし、青春の節目節目で少なからぬ影響を受けたことは確実で、悩み傷ついた僕の前にぬっと現れるのがきまって彼の作品だった。

 たぶん、最初に読んだのは『万延元年のフットボール』。大学の一般教育科目の課題だった、ということは、二十歳の頃に手に取ったのだな。中高生の時点で大江を愛読書に掲げている人だっているくらいなのだから、僕はだいぶ遅い。内容はあいにくほとんど憶えていないが、講談社文芸文庫というサラサラのカバーが付いたバカ高い文庫シリーズの存在を知った、画期的な1冊である。

 死別や失恋を経験し、半ば自暴自棄になっていた頃に友人が教えてくれたのが『空の怪物アグイー』。「君はこれから、”失う旅”に出るんだ」とその友はカッコいい言葉で僕を奮い立たせてくれたが、このフレーズが彼のオリジナルなのかどうかは怪しいところだ。今、唐突に思い出したが、昔懐かしMSNメッセンジャーを通しての会話だったな。うわー、顔から火が出るような甘酸っぱい記憶が次々と……。ちなみに友人は大江が頻繁に使う「セクス」という語のかわいさ(?)を気に入っていたようで、「セクス」とつぶやいてはゲラゲラ笑っていた。セクス、セクス!

 ゼミ合宿(母校には「ゼミ」がないため、これは正式名称ではないが)では『芽むしり仔撃ち』がいかに凄いかという話を先輩方から聞き、年上の圧倒的知識量というものに恐れおののいた。刊行されたばかりの『さようなら、私の本よ!』を評して、「自分の本にもさようならできたら最高だったのにね、アハハ!」と恩師が授業中に皮肉を効かせた場面も忘れられない。

 二十歳前後の頭がポッポしているときに、周囲の人からから教えてもらった本を読む。このことによって、どれだけ多くのものを得たことか。 古書店で手に入れた『小説の方法』(岩波同時代ライブラリー)などはその代表例。大江の視点がなければ、僕はバフチン山口昌男への関心を強めなかったわけだから、かなりお世話になっていますねぇ。

 そういえば、学生時代に「一日限りの電話番」として某テレビ局でバイトをしたことがある。そこで短期バイトをしていた友人の下請けみたいなことだったと思うが、深夜帯に4~5時間、スタッフ控室で本を読みながらダラダラ留守番するという業務。たしか弁当付きで、タクシー券(人生初!)も出た。結局、まったく電話はかかってこなかったのだが、1本だけ内線で伝言を頼まれた。「大江先生入られました!」これをフロアにいる人間たちに言ってこいというのである。僕は廊下を早足で歩き、人の集まるフロアらしき方へ「大江先生入られました!」と声を発した。「あ……はい……(みんな知っていますよ?)」という数人の表情を確認し、今来た道を三倍の速さで戻る僕であった。戦争やテロについて若者と意見を交換する特番だったはず。ご本人にはお会いできたなかったが、貴重な経験ですよねぇ。 

 そんな大江の著作リストを見て、呆然としている。僕は小説というものを読まなさすぎるのだ。幸いにも、まだまだ人生の時間は残されている。年齢に応じた作品との向き合い方ができるはずなので、未読の大江作品を読み進めることをもって余生とします。

僕と英語【第5回(最終回)】

 春は語学をスタートさせるにはもってこいの季節。書店にはNHKラジオ講座のテキストなどが平積みされていて、にぎやかなことである。コロナ禍の初年度から、なんとなくフランス語のおさらいを始めたのだ。おさらいといっても、1日10分程度。仕事で日常的に英語脳を使っていることに比べれば、たかが知れている。第二外国語は英語と並行して学習すると効果が高いのだそうだが、今のところ、微妙な感触だ。

 日本の大学では、通例、第二外国語が必須だけれども、僕が通っていた大学は2年生まで徹底して英語漬けだった。第二外国語なんてやってる暇があったら、YOUの英語をなんとかしなさいYOといったアメリカ的抑圧(?)が働いていたのだ。それはそれとして尊い時間だったが、仏独中韓など、日本の大学生が当たり前のように経験している「大学の醍醐味」であるところの語学講座が軽視されているのは、さすがにどうかと思った。

 たしか、3年生の春学期にフランス語初級を、秋学期にドイツ語初級を受講したのだ。まるで出鱈目な向学心だが、ガッツさえあれば興味の赴くままに授業を選択できる点は母校の良いところ。なぜフランス語の中級以上に進まなかったのかと問われれば、まったく相性の合わない先生に当たったのと教科書の選定が超適当だったからなのだ。その点、ドイツ語のクラスはピシッとしていて、教え方も堅実だった。でも、結局、ドイツ語中級以上は受講しなかったわけだから、僕は何事に対しても中途半端なんだろうな。

 院試に必要だから、そして、自分の研究分野に関わりがありそうだからという理由で、第二外国語はフランス語一本に絞り、半年ぐらいアテネ・フランセに通った。これも初級どころか入門クラスでしたが。古風な校舎で地に足のついた講義を受けたことは、今思えば贅沢な経験だった。修士課程のときも、博士課程のときも、試験は辞書持ち込み可だったはずなので、「フランス語ができます!」だなんて口が裂けても言えない。

 ここまで書いてきて気付いたのだが、僕は語学をかじることが結構好きなのかもしれない。フランス語、ドイツ語については、まさに「かじった」レベル。アメリカからの帰国直前の1カ月間だけ、向こうでいうところのミドル・スクールでスペイン語を履修したのも良き思い出。今でも挨拶ぐらいはできるし、「あ、この人は今、スペイン語を話してるな」くらいの耳は持っている。旅行でしか使ったことのないイタリア語に至っっては、レストランでの「お会計をお願いします!」くらいしか言えないのだが、グルーヴが大阪弁に似ていたため、「イケるな……!」と勘違いしたほど。そうです。こんなふうに、「かじる」くらいなら誰にでもできるのである。

 惜しむらくは、大学に籍を置いている間に、ギリシア語、ラテン語ヘブライ語を受講しなかったことだ。せっかく、他大では得難いその道のプロがいらっしゃったのに、ああ時間は取り戻せない。そんなわけで、それなりに頭がはっきりしている年齢のうちに、いろいろと語学をつまみ食いしたいと考えている。このほかにも、ロシア語、中国語、ブルガリア語あたりは「かじり」甲斐があるかな。

 この場で、今の僕の語学に対する意欲を整理すると、こうなる。

【究めたい】英語

【なんとかしたい】フランス語、ドイツ語

【あわよくば】イタリア語、スペイン語

【かじりたい】ギリシア語、ラテン語ヘブライ語、ロシア語、中国語、ブルガリア語 ,etc.

 いったい誰が得するんだろうという分類ではあるが、なんとなく、僕の人となりを物語っているような気がする。まずは英語ができるようになりたいなぁ。いや、できるといえばできるのだが、その精度を高めていかなきゃと思うのだ。実は大学院の約10年間で僕の英語の能力は地に落ち(このことはいつか彼方で説明するかも)、その後10年かけて向上心とプライドを取り戻したという感じ。この連載でも言及したが、ドリームキラーには本当にご用心なのだ。

 かじっては辞め、かじっては辞めを繰り返してきた僕ではあるが、気付けばおっさんに。もういい加減、愚直に物事を究める方向に進まねばと思う。特に方向を定めぬまま綴ってきた本連載、ここで一応の区切りとしよう。不必要に自分語りをしてしまった感じもするが、時にはまあいいでしょう。今まで公に話していなかったことを公開するのって、なんだか風通しが良い。また何か思いついたら書きますね。他に考えられるテーマとしては、「僕と軽音」「僕と楽器」なんかがある。音楽の話ばかりだな。読みたい人はいるのかしら。いなくても書きますけれども。