志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

文筆家・志村つくねの公式ブログ。本・音楽・映画を中心に。なるべくソリッドに。

ペーパードライバー狂習【短期集中連載:第1回】

 ファミコン最盛期に「ドラゴンボールZ 強襲!サイヤ人」という名作があった。原作のクオリティを損なわない程度にゲームシステムやストーリーの点で攻めていて、愛着をもって遊んだものだ。原作ではパッとしないチャオズが超能力を駆使して……という話はどうでもよく、強襲、もとい教習の話である。しかも、ペーパードライバー向けの。
 坂の多い町に住んでいる。いや、坂ではない。崖と言ったほうが正確だ。自宅は最寄り駅からそんなに離れていないし、超最低限の日常生活を営むには問題なし。でも、そこに「幸福」という尺度を採用した途端、ムムムと変な汗が出てくる。正直なところ、「ちょっとそこまで」の買い物などに苦労する。
 ここ数年、人生のさまざまな分岐点が訪れるようになった。もちろん、コロナ禍はおおいに関係あるのだが、自分が「そういう年齢」に差し掛かったことが一番大きい。
誰にもやって来るであろう、育児、介護等の生々しい場面。幸いにして、周りの家族は(表面上)健康だ。みんなの体が動くうちに、先を見据えた一手を打つのが賢明だろう。自分のことだけ考えて生きる時代は、知らぬ間に終わりを告げていたのだ。
 とまあ、まるで殊勝な心がけで教習に臨んだかのようだが、実際は嫌嫌ながらに決まっている。何しろ、車というものに対して自信がない。自慢じゃないが、こちとら免許を取得してからハンドルを握ったことがないのだ。22年3か月年ぶりの運転である。
 この間は、当然、ゴールド免許保持者だった。ゴールデン・ペーパードライバー! 聖闘士星矢の必殺技みたいな名前だ。運転しないことが最強の交通安全。維持費もかかるし、東京や大阪は交通手段が発達している。「べつに車、要らないよなぁ?」と考えるのは自然なことだった。運転免許証とは、なんと持ち運び便利な身分証明書であることよ。
 22年前の教習では、「今まで生きてきて、これ以上の屈辱を味わったことがない!」という悲惨な目に遭っている。親切で丁寧な教官に何人も巡り会えた一方で、徹底的に合わない人が数名いた。車という密室の中、こちらが傷つくような言葉や態度で対応され、泣きに泣いたものだ。
「ウチには車がないもので、仕組みがよくわかってなくて、すみません……」「そんなの、見ればわかります!」教習初回のおばさん先生のキッツい対応が後々まで響いた。わけもわからず、MT車を選択したのも敗因だった。クラッチって何? 何度もエンストして、その度にドッカンドッカンと車が暴れた。機械にまで馬鹿にされるのか。AT限定にしておけばよかった。僕はすべてにおいて自信を失った。
 そんな拷問のごとき日々再び! と想像しただけで立ちくらみがする。いろいろ調べた結果、手頃な教習所がわりと近所に見つかった。今の時代、ペーパードライバー向けの家庭教師サービスもあるらしいが、もちろんお高い。無料送迎バスあり、技能教習全8コマの5万円プランに賭けてみよう。今回は当然、AT車で申し込むのだ。
 自宅近くのケーキ屋の向かいに送迎バスが停まるらしい。おお、来た来た。運転手さんに会釈をし、「お願いします」とスムーズに乗り込む。ただ申込に行くだけなのに、顔色が悪い。20分ほど揺られるうちに、金八先生に出てきそうな河川敷が目の前に広がった。対向車とすれ違うのも難儀な、幅の狭い土手をズンズン進んでゆく。こんな立地で路上教習に出たら、即死だ。ますます顔色が悪くなるのがわかった。
 着いた。えらい近代的な建物だ。22年前に通った東大阪の教習所とはわけが違う。昨今、どのスクールも生徒獲得に血眼になっていると聞く。サービスが行き届いていないと、ナウなヤングはすぐにそっぽを向くのだそうだ。ここは設備も教官も評判が良いらしいのだが、果たしてどうか。とりあえず、トイレで用を足す。やけに清潔だ。
 受付に案内され、ペーパードライバー教習を申し込む。周りは学生だらけ、と思いきや、意外とバラエティ豊かな顔ぶれである。赤ちゃん連れの主婦(託児所もある)、トラックかバイクの免許を取りに来たであろうおっさん、ヤンキーカップル、その中に浮かない顔をした43歳自由業男性が縮こまっている。切ない。
 簡単にプランの説明を受けた後で、視力検査をする。唐突だなぁ。窓口で機械(?)を覗くのだが、ここぞというタイミングで視界がぼやける。うーん……(脂汗)。右1.5、左1.2と視力には絶大な自信があったのだけれど、そういえば何年もまともに測定していなかった。受付のお姉さんが気の毒そうに「0.3以上ないと、教習は受けられませんよ~」とプレッシャーをかけてきて、ますます焦る。じゃあ、こちらの大きい機械でもう一度やってみましょう、と受付の裏に連れて行かれたわけだが、うーん……(脂汗)。なんだか、お情けで通してもらったような気がしたけれども、基準には達したということで、手続き続行である。それにしても、なんなんだ「大きい機械」って。

 これは神様の思し召しと捉えよう。生活が落ち着いたら、眼科に行きなさい、と自分に命じる。なんなら、メガネも作るのだ。このままだと、免許更新の際に、再び大汗をかいて恐縮してしまうことになる。考えてみれば、この20数年間は文字を見続け、眼球を酷使してきた年月だった。そこへ、コロナ禍を経ての働き方改革(?)があったわけだ。目が悪くならないはずがない。
 青い顔が赤くなったり、ビショビショになったりするうちに、手続きも終盤へ。僕は週1回2コマのペースで11月を運転練習に捧げる決心をした。無駄に車種が選べるのだそうだ。BMVにAudiという選択肢もあったが、乗らないよなぁ……。男は黙って、国産車MAZDA AXELA一択でブイブイいわせるのだ。

 こうして幕を開けたペーパードライバー教習なのだが、まあ、毎回ドラマがありました。今日から数回に分けて、事の顛末を語っていこうと思う。実は週明け月曜日がラストの高速教習なんですよ。まだ死にたくないね。HIGHWAY TO HELL!

阪神タイガース38年ぶり日本一に想う

 口に出すと実現しなくなると思って黙っていたのだが、とうとう阪神タイガースが日本一になってしまった。誠におめでたい。関西に住んでいたら、もっと現実味があったんだろうな。そう、あまりの出来事に、まだちょっと信じられないでいる。

 僕と阪神の関わりについては、リーグ優勝時に書いたこの記事

僕と阪神タイガース - 志村つくねの父さん母さんリヴァイアサン

を参考にしていただこう。あれからCSをうまいこと勝ち上がり、オリックスとのシビれる日本シリーズを戦い抜いてくれたことに感激である。肝心なところで負けるのが阪神の常だと思っていたので、夢のようだ。いや、まだ夢の中にいるのかもしれない。

 38年ぶり、2度目の日本一なのだという。すっごい古くからある球団なのに、それだけしか頂点に立ってないんかい! と驚くばかりだが、ここがミソなんだろうな。前回の優勝時、僕は5歳だった。自宅で紙吹雪を放り上げるその瞬間の写真を父が数点送ってくれたのだが、まあ、なんてかわいいの。無邪気というか、何もわかっていない顔をしている。阪神帽を被って、めでたく笑っている。そこから38年も試練の道が続くことを知らずに。当然、父も母も若かったわけで、なんだか幸せそうだ。いや、幸せそのものだ。こういう目に見える記録が残っているのって、いいなあと素直に思える。

 バース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発という伝説をまるでその場で観てきたかのように語る人がいる。僕も油断するとその傾向があったので、東京に住んでからは特に周囲の気配に注意しながら野球のことを喋るようになったものだ。べつに浮気したわけではないのだが、地理的状況とチームカラーの関係で、2000年以降はベイスターズとライオンズを応援することが増えた。帰省のたびに、阪神戦の中継を命の支えとしている祖父や父の気迫に圧倒されていた。「カンカンのトラキチは違う」と自分の中途半端さを呪いもした。

 小中高と阪神ファンを公言していたが、今では考えられないほど肩身は狭かったのだ。実は大阪にはけっこうな数の巨人ファンがいて、中小企業の幹部クラスにそういう人は多い。そして、僕の中高には「中小企業の幹部クラスの息子」がウヨウヨいて、90年代、暗黒時代真っ只中の阪神のことを悪く言うやつが非常に多かった。お金でなんでも解決するタイプが嫌いなのは、ここに端を発していると思う。東京に来てからは、巨人ファンにも良い人はいるし、巨人の選手にも惚れ惚れするようなセンスの持ち主もいると考えを改めるのだが、それはまた別の話。

 2000年代に入り、タイガースは何度か日本一を掴むチャンスがあったけれども、その度に失敗した。そして、その都度増殖する「強い時だけ阪神ファン」みたいな人たちにウンザリしてしまった。たまに神宮で阪神戦を観たりもしたが、僕の知る牧歌的な風景はとうに消えていて、ちょっと応援が下品だなとさえ思った。都会的で洗練された阪神が好きだったのに、どうにも居心地が悪くなったのだ。

 まあ、その後もいろいろあった(←端折り過ぎ)わけだが、2023年ですよ。選手時代に大ファンだった岡田監督が、きわめてまっとうな采配(それが一番難しい)で天下を獲ったことが痛快だ。僕は奇策や迷采配に厳しい性格なので、現有戦力の良さを最大限に活かす今シーズンの戦い方に感動した。そして、安藤、久保田、今岡、藤本など、現役時代に心を込めて応援していた選手がコーチとして活躍する姿にもグッときた。元気に生きていれば、美しく楽しい場面に出会える。腐っちゃダメなのだということを阪神タイガースは身をもって示してくれた。

 ところで、僕は日本一の瞬間をリアルタイムで体験することは叶わなかった。自室でTVer中継を観ていたのだが、岩崎がマウンドに向かい、あと1人! という完璧なタイミングで「家族のやむを得ぬ事情」に呼ばれてしまったのだ。「泣きたいのはこっちだよ!」という気持ちだったのだけれども、まあ、いろいろありますよね。生活って、いろいろあるんだわ。

 その後は気を取り直し、公式ダイジェスト動画などで優勝の雰囲気を味わった。うーん、実感があるような、ないような。来年以降も、締まった野球で魅せてくれたら最高だな。「しまった!」と頭を抱えるような野球とは無縁でありますように。

 連覇してくれれば、そりゃ感無量だが、次は38年もかからないで日本一になってほしい。「今回の優勝を支えたのは、あんたらぐらいの世代やな。物心ついた頃に、親の影響で阪神ファンになったような子らが甲子園で岡田コールしてるわ」と電話口の母はしみじみと語った。この分析はちょっと当たっているかもしれない。親から子へ、子から孫へ。なんか、日本のプロ野球っていいなあと心の底から思ったことである。

僕と大学院【第8回】

 震災のどさくさに紛れて、世の中、さまざまな出鱈目がまかり通るようになった。ここで腐っていてはしょうもないので、心を気高く保つことだけは忘れないようにした。2012年、僕は32歳になっていた。博士課程ではたっぷりと時間を使うと決めていたが、さすがにゴールを意識しないといけない。2014年の3月に晴れて学位授与式(=卒業式)を迎える自分の姿をイメージしてみた。焦る。
 公にできないことは多いのだが、この頃、TA業務のあり方や大学行政について考えさせられる事件が頻発し、疲労が積み重なっていた。震災後、誰もが興奮あるいは虚脱した時期ではあったのだけれど、そんな最低な時でも、「声の大きい人」が勝つようになっている。僕は、そのことが情けなく、悔しい思いを抱いていた。
 仕事仲間であり、絶大な信頼を寄せていた院生の先輩が大学から去ることになった。震災がらみのご実家の都合で、とのことなのだが、現実はあまりに残酷だ。公私にわたりお世話になり、僕の思想に少なからぬ影響を与えてくれた恩人なので、喪失感は大きい。何より、彼におんぶにだっこだった諸業務を引き継がないといけない。会社ではこんなこと日常茶飯事なのだろうが、大学は大学でややこしい組織なのだ。僕の緊張は最高潮に達した。
 彼は完璧に物事を処理する人だったので、問題が表面化する前に、何事もなかったかのような景色が広がっている。僕にそんな芸当は出来っこない。自分にできる範囲のことだけをやろう。問題があるなら、表面化してしまえばいい、ぐらいの気持ちで。誇張抜きにして、2012年のあの時から今日まで彼のことを考えなかった日はない。お互いの状況に配慮しすぎたせいなのか、やがて連絡は途絶え、自然と疎遠になってしまった。今、どうされているのだろう。人付き合いにおいて、僕はこの手のパターンが多いな……。
 頭が冴えて優しい人ほど大学を離れていく傾向があって、やるせない。急にこんな状況に陥った人を、どうにか救済する手立てはないものか。今の自分は無力だけれど、将来、自分が活躍することによって、何らかの形で「巻き込んで」いけるのではないか。思い返せばおこがましい発想だが、僕はわりと真剣にそういうことを考えていて、自分の行動指針とした。一寸先は闇。やりたいことは今のうちにやっておかねば。
 自然環境的には居心地のよいキャンパスだったけれど、内部事情を知れば知るほど、なんだか窮屈になってくる。某先生からの教えなのだが、ある意味、意地悪でないと大学では生き残れない。信じられないことに、廊下で挨拶してもフフンと無視する教授もいた。彼はわが上司の敵対勢力だったのだろう。すごく幼稚だなと感心した。結局、大学って、学問ではなく政治をやっているのだ。ICUを理想化しすぎてはいけない。愛した学び舎からついに離れるイメージを持ち始めた。とにかく、ここから出よう。
 奉公にしろ、研究にしろ、「頑張ったら頑張った分だけ返ってくる」という認識は大間違い。私見では、小ズルい奴ほど上手に立ち回り、生き延びる。そこまでして手に入れたい地位や称号って、なんなんだ?  今より血気盛んな僕には、清く正しく美しく、魂を解放する場が必要だった。
 油断すると絶望的な気持ちになるなか、前に向かって歩いていけたのは、新たな出会いの数々のおかげだ。この時期、大学の外での交流が活発化し始めた。今や殺伐としているTwitter(現X)は大変のどかなものだった。文章の面白い人や情報を的確に発信できる人など、「この人はすごくいいな!」と思える書き手に溢れていて、夢中になった。
 Twitterの「1投稿あたり140字まで」という制約は僕にとって非常にありがたいもので、日々思い浮かんだことを発信するのに最適なサイズ。依存とまでは行かないが、事あるごとに短文を投稿して悦に入っていた。当然、自分の文章がリツイートされたり「いいね」を得ると、嬉しくもなる。論文書きとは孤独な戦い。博論のアイデアが停滞気味だった僕にとって、Twitterは偉大なツールだった。
 要するに、自分は誰かに認めてもらいたかったのだ。評価を得ることは自信につながる。ここはひとつ、この欲望に忠実になろう。生まれて初めて、自らの意思で創作を開始した。
 本当は小説を書いてみたかったが、名作群を読めば読むほど、どうやって書き始めればよいのかわからなくなる。そこで僕はまず、詩に目を付けた。詩なら、短くて済む。スキマ時間を活用できる。曲がりなりにも、軽音サークルでバンドを組んだことのあるヴォーカルだ。作詞家デビューで印税ガッポガッポ! 「おれは中島みゆきだ! 草野正宗だ! 大槻ケンヂだ!」くらいの意気込みで、原稿用紙に何事かを綴った。よせばいいのに『現代詩手帖』に数作を投稿し、あえなく撃沈した。選者に遠回しにペンネームを非難されるというオマケ付きだった。だが、こんなことで折れるような心ではない。僕は短歌のリズムに興味を持ち、『短歌研究』と『角川短歌』の公募欄に毎月投稿するようになった。すると、面白いように作品が採用されていく。特選とまではいかないが、自分には佳作を連発する能力があると知った。「ああ、生きていていいんだ」と思った(死ぬ気はなかったが)。この投稿の習慣は今も続けていて、短歌歴は10年以上になった。いまだに必殺の名作は生まれていないが、継続することに意義があると思っている。
 同時期に、俳句にも手を出した。以前から歳時記という書物には大きな関心を持っていて、今こそ実践のタイミングと考えたのだ。こちらも専門誌に少し投稿したことがあり、一応の評価を得た。作っていくうちに、どちらかといえば、俳句(五七五)より、短歌(五七五七七)の文字数のほうが性に合っているように思えた。俳句のスピード感とミニマルな魅力に気づくのはしばらく後のこと。僕は己の魂を穏やかに保つため、当面は短歌という枠組みを頼るようになった。
 何かを作り、発信すれば、会いたい人、会うべき人と会えるようになっている。僕の30代の行動原理がここに芽生えた。言葉を尽くそう。世界は意外と狭いかもしれない。博士課程終盤の憂鬱な日々に希望の光が射しこんだ気がした。

 こうした活動は大学での自分と切り離して考えたかったので、ペンネームを用いるようになった。当初はTwitterのハンドルネームでもあった「S村月音」名義で活動。「S村」は「シムラ」でも「エスムラ」でも、何とでも読んでください、という投げやりな態度。「月音」と書いて「つくね」と読むのは、僕の発明ではなく、その頃ハマッていたアニメ『ロザリオとバンパイア』の男主人公の名前だ。ちょっとエッチなラブコメディの明るさにあやかりたかったんだと思う。いまだによく尋ねられるのだが、べつに「つくね」が大好物というわけではない。焼き鳥屋さんでは、断然「ささみ」派で……って話はどこかでした気がする。

 そんな院生生活の末期、僕は近所で枡野書店なる不思議な空間を見つけてしまった。店主の枡野浩一さんのこと、本当に何も知らなくて、その「何も知らなさ」が良かったのだと今でも思う。初対面の枡野さんにペンネームを(柔らかく)批判され、素直に受け入れていなかったら、「志村つくね」は誕生していなかったに違いない、というお話など、次回、乞うご期待。

僕と大学院【第7回】

 阿佐ケ谷での新婚生活が始まった。妻は勤め人だったので、帰宅の早い、学生の僕が基本的に夕飯担当となる。一人暮らしが長かったとはいえ、カレーやスープぐらいしか料理のバリエーションがない。ヴィレヴァンで陳列されているような、男子厨房に入る系のレシピ集など買い込んで、必死に勉強した。揚げ物とか、手の込んだものはまったく作れないが、それなりにレパートリーが増えていくのは楽しかった。ネットで見つけた「麻婆大根」(茄子でも豆腐でもない)のレシピは、我が家自慢の逸品として定着。ぶつ切りのタコとミニトマトに塩を振り、オリーブオイルで炒めるなど、ちょこざいな料理をこしらえたりもした。1000円で買えるワインの味を覚えたのもこの頃である。あと、イカをさばくのが妙に巧くなったことは強調しておきたい。身から皮を剥がすのではなく、皮から身を剥がすイメージ。
 大学院生としてのミッションを終えた後に家事をやるのは、正直、骨が折れたけれども、そこは新婚だもの。明るい未来だけが広がっていると信じて、懸命に毎日を生きた。苦労すらも喜びだと思っていた。若すぎたんだろうな。

 阿佐ケ谷は都心にも郊外にもアクセス便利で、適度に文化の薫りが立ち込めている点が楽しい。ろくに開拓していないが、お酒や食べ物の美味しい店多数。さらには、おもしろイベントスペース、阿佐ケ谷ロフトまである。おかげで、芸人、アイドル、ミュージシャンを街中でよく見かけてテンションが上がった。高円寺・中野に次いで、野望を胸に秘めた若輩者が勘違いしやすい土地なのだ。一時期の僕は、家が近所なのと笑いの研究者なのをいいことに、ちょくちょくこの店に遊びに行っていた。観客参加型の「ふせん大喜利」とか、めちゃくちゃ笑った記憶があるんだが、今でも開催されているんでしょうか。「下世話」にこそ、真理は宿る。

 こうしたトークイベントは、くだらないように見えても気付きが多いもの。いつしか僕は「あの壇上で好きなことを喋れたら楽しいだろうなぁ」と夢想するようになった。そして、そのささやかな願いは、数年後にロフト系列の他店舗で叶うことになるのだから、なんでも念じてみるもんだ。(今でも、大槻ケンヂさんの「のほほん学校」への出演を夢見ていたりする。)

 イベントといえば、現ゲンロン、コンテクチュアズ友の会にも会費を払って参加していた時期がある。これは批評家・作家の東浩紀が中心となって立ち上げた文化的集いで、現役の学生なら、少し浮き足立つような魅力的コンテンツや文化人で固めた「場」だった。知的な要素を掲げたこの種の空間の出現は、10年ほど前、とても画期的なことのように思えた。そもそも「コンテンツ」なるカタカナ語を僕は嫌悪していたわけだが、その後、現在に至るまで、この語はしぶとく生き残っている。世の中よくわからない。

 ずっとICUにいると、居心地が良くて、外界との接点がほとんど断たれてしまう。注意してはいたものの、僕もそういう傾向に陥っていた。ただでさえ外部の学会や研究会に参加していない僕にとっての「外」。そんな思いで、ある種の刺激を求めていたのだろう。ゲンロンカフェのいくつかのトークイベントに行き、「総会」と呼ばれるオフ会的な催しも覗いたのだが、うーん。壇上の有名人同士は盛り上がっているが、聴衆(というか僕)は置いてけぼりを食らっているように感じた。結局、思うところあって、発足初年度から2,3年で辞めてしまった。あのまま惰性で続けていたら、素敵な出会いの一つや二つあったのだろうか。なんか違うな、と思ったら、さっさとその場を離れる技術を覚えた。
 ひと言申し添えておくと、僕は東さんのことを過剰に崇拝するような取り巻き文化を気色悪く思っている。その一方で、たいして著作を読みもせずに東さんの思想を批判する(その多くは「批判」とさえ呼べないもの)輩を軽蔑している。良いことは良い、悪いことは悪い。東さんに限らず、人物を見るときは是々非々の精神が大切だと思う。

 2011年3月11日、東日本大震災。誰でもそうだと思うが、この日を境に、既存の価値観は一変した。コロナ禍における人と人との分断にもえげつないものがあったが、9.11に続く、衝撃の大きな出来事だった。粛々と大学院生をやりつつも、僕なりに「人間とは?」を考える機会が増えた。

 愛読していた坪内祐三×福田和也SPA!連載対談に「あの日、どこで地震を経験したかが将来的に重要な意味を帯びてくる」といった発言があったように記憶しているのだが、その通りだと思う。僕は阿佐ケ谷の自宅マンション9階で、PCに向かって考え事をしていた。今まで体験したことの「ある」、床が波打つような揺れ。とっさにとった行動は、通信ができるうちに、大阪の母に電話をかけることだった。まだ足元がぐらつくなか、「あの時とおんなじや!」と叫んだのが第一声。電話口の母もさぞ心臓に負担がかかったことだろう。揺れが収まってからテレビを付けると、かつて目にしたことのない光景が続々と飛び込んできた。

 1995年の阪神大震災、僕は中2で、大阪府茨木市の実家マンション6階もかなり揺れたのだった。スチール製の本棚は倒れ、一部の食器が割れるなどした。が、揺れの烈しかった地域に比べれば、どうということのない被害だ。同じ関西の中でも、神戸の人と大阪の人で震災被害に対するまなざしはまるで違っていた。大阪府内でも、僕の住んでいた北摂大阪市内では捉え方に大きな差があった。奈良県から通学の同級生なんて、普通に笑って暮らしている。まさに対岸の火事といった顔。何事もなかったかのように「日常」を続ける東京発信のテレビ番組に怒りを覚えたりもした。

 そして、2011年の東北と東京である。あまりにも考えるべき要素が多くて、当初はずいぶん困惑した。僕の研究の方法論のひとつであった「中心と周縁」など、何か役立つことはないかと思ったが、まるで無力である。自分の研究では誰も救えないのか、実学じゃないと日本では認めてもらえないのか……。いらんことをいっぱい考えてしまったが、こういう時こそ「想像力」と「思いやり」だと、自分を立て直した。僕が1995年に大阪にいて、2011年に東京にいることには意味があるように思えた。直接的に何か行動するわけではないが、常に弱き者の味方であろうとすることは、できる。「道化」の視点は危機の時にこそ力を発揮するはずなのだ。

 その日、妻は真夜中に電車を乗り継いで、疲労困憊で帰宅した。ほとんど寝ずに、数時間後に出社する羽目になった彼女に対する想像力を僕は著しく欠いていた。組織とは、何なのだろう。30歳そこらの僕はまだまだお子様だった(恐ろしいことに、今でもそうだが)。思えば、ここが分岐点やったのう。

 閑話休題

 地震の後はすぐにTwitterで情報収集していたのだけれど、すでにこの頃には、当たり前のようにTwitterを使っていたのだなと感慨深くもなる。調べたところ、僕のTwitter開始は2009年12月のことらしい。そこから思いがけない出会いが連鎖したのだから、一概にSNSのあり方を非難することなど、僕にはできない。お話してみたかった方と直接やりとりできる可能性があるのって、どれだけ素敵なことか。ギスギスせず、のどかで楽しい時代でした。友達の輪が広がり、ようやくICUから外に出られると直感した。

 2009年から2011年にかけて、ちょっと目まぐるしい日々を過ごしていたのだと思う。大袈裟ではあるが、「今、生かされていることの意味」を考えながら暮らすようになった。博士課程の生活もついに終盤へと突入。僕はここから、とんでもなく大きな出会いと別れを経験することとなる。

僕と大学院【第6回】

 毎朝楽しみにしていた朝ドラ『らんまん』が最終回を迎えた。あまりドラマを観る習慣のない僕だが、ここ数年、ちょっと考えるところがあり、生活のペースを整える意味でも、連続物を鑑賞するようになった。『らんまん』のストーリー展開や人物造形が秀でていたのは言うまでもないけれど、主題歌のあいみょん「愛の花」が回を追うごとに大きな意味を帯びてきて、「わあ、良い歌詞書くなぁ!」と感服。なかでも「私は決して今を 今を憎んではいない」というフレーズの引力が凄い。天真爛漫がゆえに大学関係者といろいろある万太郎の苦悩を想ってジーンとくるのである。さて、僕の大学院物語の続きだ。

 3本の博士候補資格論文の審査に合格し、お次は中間報告という段階になった。中間報告といっても、単に進捗を報告するのではなく、「博論のほぼ完成形」が求められる。気合いを入れなければ突破できない関門である。前にも言ったが、人文系では、最短の3年で博士課程を終える人は滅多におらず、工夫を凝らして学生の身分を延長するのが通例だった。要するに、自分なりに時間を作って、最大限もがくのだ。
 僕は日ごとにTAのスキル(印刷、報告、密偵など)を身に付け、スキマ時間を見つけては、関心分野の読書に励むという生活を送っていた。狂言や歌舞伎に足繁く通い、                                                                   お金の許す範囲でライヴにも出かける。もちろん、必要に応じて講義を聴講したり、ゼミの発表に参加したりするのだが、ボーッとしているように見えて、これがなかなか忙しい。この時期に「そんなのは忙しいうちに入らない」と謎のマウントをとってくる社会人などが周りにいたけれども、この手の想像力と思いやりを欠いた人は、きっと仕事ができないと確信している。僕は昔から、「自由を謳歌しているように見える奴は懲らしめてやる!」といった思想の持ち主に目を付けられる傾向がある。

 それはともかく、単調になりがちな博士課程生活に劇的な変化が訪れた。結婚である。2009年(29歳)を境に、自分のことばかり考えてはいられなくなった。お相手は以前にも述べたメロユニの後輩。「軽音の先輩・後輩で大団円を迎えてヒューヒューだぜ!」みたいな言われようもするのだが、それは非常に精度を欠いた野次だ。心身ともに新鮮でいられるのは若い季節のみである。結婚なんて生易しいものではない(ということがここから何年後かにわかる)。あと、何故だか知らんが、僕が「電撃的に」結婚したり、「学生結婚」したと勘違いする人も少なからずいたようだ。何も知らん他者ほど、スキャンダルを作り出したくなるものらしい。今でもたまに「なんで結婚したの?」と問われるが、僕はその度に「機が熟したから」と答えるようにしている。物件探しと同じで、タイミングとご縁の賜物だと思う。

 結婚式はごく限られた親族のみの少人数で行った。海の見える、たいそう立派な式場で、ちょっと身分不相応かもなぁとも思った。でも、集まったみんながすごく幸せそうな顔をしていたから、こういうことはちゃんとやっとておくものだなと開き直った。神は僕らの門出を祝福している。そう信じていた。無邪気なものだったと思う。

 二次会は渋谷に移動して、レストランを貸切にしての開催。こちらはメロユニの仲間を中心に、「友人編」のパーティーだった。会費を集めてお祝いしてもらうという、日本式(?)の非常に厚かましい集いだったけれども、久々に再会する人もいて、嬉しかった。そして、自分たちだけのために駆けつけてくれたことにおおいに感動した。「感動」という言葉は、こういうときにこそ使うべきだと、今でも思う。

 三次会はカラオケだった。SHIDAXのやたらとデカい部屋に30人ぐらいはいた気がする。幻だったかもしれない。文字通り、朝までどんちゃん騒ぎ。有志が一人ひとり、お祝いの歌を披露してくれるなか、請われて、GUNS N' ROSES「Welcome To The Jungle」とEXTREME「More Than Words」を歌った気がする。感涙にむせぶことも忘れるほど疲れ果てていたが、みんなの温かい気持ちが胸に刺さって、本当にありがたいことだと思った。たまに生きていくのが辛くなった時、あの光景を思い出しては、自分を奮い立たせている。あの日以来会っていない人も大勢いるなぁ。皆さん、お元気でしょうか。どうか、元気でいてください。

 この結婚を機に、僕は上京してから10年暮らした武蔵小金井を離れた。自然に囲まれた素晴らしい環境だっただけに、引っ越し当日は妙に感傷的になった。大家さんに最後のご挨拶をして「いい人に入ってもらえてよかったわ」と言われたときは言葉にならなかった。荷物を抱えて乗り込んだタクシーから見える小金井公園の桜並木が綺麗で、目的地に着くまでずっと泣いていた。

 中央線沿いにまだまだ生息する気まんまんの僕は、次なる場所として阿佐ヶ谷を選んだ。阿佐ヶ谷にまつわるエピソードも長いのだが、それは追い追いお話しすることになるだろう。みんな知ってると思うけど、これまた良い街ですよ。

 こんなボンクラな僕でも、この年の夏に新婚旅行をやってのけている! 行先はイタリアだった。ちょうど妻の友人がフィレンツェに留学中というタイミングを活かして、フィレンツェとローマに絞って1週間ぐらい観光した。これがもう、人生のハピネスはここに全部集まってしまったのではと錯覚するほど楽しくて、僕は今すぐあの日々に帰りたい。イタリア語は僕の性に合っていたらしく、旅の会話帳を手にしながらレストランで注文するのが快楽になってしまった。「イル・コント・ペル・ファヴォーレ!(お会計をお願いします!)」ぐらいしか言えないのだけれども、イタリア語特有の明るい響きは僕の太陽のような心と響き合っていた……と思うことにしよう。フィレンツェで食べたTボーンステーキとローマのビスマルク(ピザ)は、自分史上最も美味と感じた食べ物だった。旅情と相まって、これ以上の食体験というものを僕はしたことがない。

 とまぁ、今までネット上では公表してこなかったことを綴ってみた。びっくりされた方もいらっしゃることでしょう。でも、僕の生態をX(旧Twitter)で観察していれば、うっすら気付くと思うのですが。正直、ここには(まだ)書けないことが山ほどあるのだが、冒頭の「愛の花」の一節を引いて、今回は終えよう。「涙は明日の為 新しい花の種」。あいみょん、良い歌詞書くなぁ。

僕と阪神タイガース

 ただいま大学院時代のことを連載中ではあるが、ここでちょっと休憩。18年ぶりにリーグ優勝を成し遂げた阪神タイガースのことを書いておかないと、後悔する。ときにベイスターズを、またあるときはライオンズを応援しているお前が何を言うとるか! とのお叱りが聞こえてきそうだが、そんなに目くじら立てないで! たしかに、横浜、西武、近鉄、南海(ダイエーでもソフトバンクでもない)のファンを公言している僕だが、遺伝子レベルで居ても立っても居られなくなるチームといえば、どうやら阪神のようだ。

 タイガースが日本一になったのは、1985年のことらしい。「らしい」と言ったのは、幻のような映像が脳内に刻まれているだけだからだ。優勝の瞬間、実家のテレビの前で、父(東京出身だが阪神ファン)と一緒にお手製の紙吹雪をぶちまける図。これが僕にとっての「阪神の最初の思い出」である。

 小学生低学年の頃は、運動神経がないくせに、ストライプの阪神帽を被ってお出かけしていた。裏に六甲おろしの歌詞が書かれた、真弓のサイン(印刷ですが)入り下敷きを愛用。野球をやってもいないのに、甲子園球場でヒーローインタビューを受けるのが夢だった。米ペンシルヴェニア州ハーシーに住んでいた頃は、阪神百貨店のセールで母が買い求めた「HANSHIN TIGERS」のウィンドブレーカーを着て遊んでいた。「HANSHIN」と「HERSHEY」の字面が似ていたせいか、クラスメイトにやたらと好奇の目を向けられたのは甘酸っぱい思い出である。そういえば、かの地のハロウィンでは、虎メイクで阪神の法被を着て、「トリック・オア・トリート!」などとやったものです。正気の沙汰ではないな。撃たれなくてよかった。

 以前にも書いたかもしれないが、初めてプロ野球を観たのは1987年の大阪球場、南海対阪神のオープン戦だった。トラキチの祖父による解説付きの観戦。その頃はまだギリギリで、バース、掛布、岡田の名がスコアボードに刻まれていたように思う。甲子園球場デビューは意外と遅く、中学生くらいだったような。俗にいう、90年代暗黒時代のタイガースである。めちゃくちゃ弱かったが、スター性豊かな新庄と桧山を生で観る価値は十分にあった。新庄は守備練習でもプロの技で魅了してくれる、見上げた選手だった。桧山のレフト方向の打球の美しさにもとことん惹かれた。何事においても、キッズの心をワクワクさせる人というのは、気持ちの良いものだと感じ入った。弱さの中でこそ、美学は輝くのだ。

 今では信じられないかもしれないが、阪神は「たまに勝つことがある」球団で、当時はホームランを二桁打つ選手が神様に見えた。弱小ながらも戦力をやりくりして戦う姿は、その後の僕の思考回路に少なからぬ影響を与えていると思う。

 大学進学にともない、2000年から東京生活を始めた僕にとって、阪神はやや遠い存在になった。まず、日常的にサンテレビを観られないというのが大きかった。電車の中でスポーツ新聞、特にデイリーを広げているおっちゃんにもお目にかからない。周りは巨人ファンだらけかと思えば、そうでもなくて拍子抜けした。そもそも、関西と比べて、関東の皆さんはそこまで野球文化にどっぷり浸かっている感じでもなかった。まあ、首都圏だもの、他に娯楽はあるよね。生で阪神の選手を拝むことはほぼなくなったが、夏の帰省と絡めて、甲子園で高校野球を楽しむ習慣ができた。2006年頃からは、神宮、横浜、所沢にふらっと出かけてプロ野球の空気を浴びるようになった。

 ところで、僕はチームカラーというものを重視している。自分とグルーヴの合わない監督が指揮を執っている時期は、ほとんど関心を持てなくなってしまうのだ。そんなわけで、ここ10年以上、阪神の「色」にピンときていなかったのだが、ようやく期待を持てる監督の再登板とあって、自然とテンションは高まった。「アレ」という言葉が独り歩きするのはちょっとどうかと思っていたが、今年のペナントレースは見事なゴールを迎えられたので、問題なし。岡田監督のインタビューからは「大阪のエエおっちゃん」の機知とユーモアが感じられて、思わずニヤけてしまう。今のチームは「四球を選ぶ」という僕好みのスタイルなのも嬉しい。今岡や久保田など、僕が熱心に応援していた時代の顔ぶれがコーチを務めていて、胸が熱くなる。

 自分など、ガッチガチの阪神ファンではないと思っていたが、ここまで書くと、なかなかのレベルの思い入れがあるなと気付いてしまった。2003年と2005年の日本シリーズでの散り方はあまりに呆気なかった。肝心なところで負けまくるのが阪神の美徳といえば美徳だが、今回はそういうの要らないから! ここまできたら、どうか日本一になってください。

 大阪球場で生の阪神を見せてくれた最愛のおじいちゃんは、藤浪のルーキーイヤーにこの世を去った。今年の阪神の戦い方と藤浪の謎の活躍ぶり、おじいちゃんは天国でどう受け止めていることだろうか。いや、だから、せっかくなので、日本一になってよ! 頼むわ。

 こんなことを綴っているうちに、オリックスパ・リーグ制覇のニュースが届いた。こうなったら、日本シリーズは是非とも阪神×オリックスの関西対決でお願いしたいところ。他球団にはCSで空気を読んでもらおう。たまにはそんな楽しみがあったっていいじゃないか。ホント、惑星直列ぐらいの滅多にない出来事なのだから。

 それはそうと、NEW ERAのメッシュキャップとか、優勝セールの対象になりませんかね? 久しぶりに阪神帽を被りたくなっている自分がいる。返す返すも残念なのは、いつぞやのDIR EN GREY 薫さんと阪神タイガースのコラボ法被を購入しなかったことだ。この手のグッズは一目惚れした時に買っておかないと、激しく後悔することになるなぁという案件である。

薫×阪神タイガース コラボ法被 | GALAXY BROAD SHOP

 ああ……。優勝した時だけ饒舌な奴、みたいに思われたらやだなぁ。まあ、虎に対する思い入れは深いので、ご勘弁。「にわか」でないことは確かです。

僕と大学院【第5回】

 2006年4月、博士課程(正確に言えば、博士後期課程)に進学した。僕は26歳と中途半端な若さ。指導教官は並木先生からツベタナ先生へと引き継がれた。この段階になると、必修の授業というものはないのだが、こまごまと忙しくなってくる。いきなり博士論文の執筆に専念、というわけにはいかないのだ。

 ICUの大学院の特色として、博士論文を提出する前に3本の博士候補資格取得論文(略称、キャンディダシー)を仕上げ、各審査に合格する必要がある。これはアメリカの大学院でよくある方式なのだそうだが、僕の周囲で博士課程を最短の3年で終える人は極めてまれだった。大多数の学生はアシスタントとして働きながら、身分の延長に奔走するのが常。途中、戦略的休学を挟むなどして、最大で10年ぐらいは博論の提出期限を延ばすことができた。

 僕のキャンディダシーのテーマは、大まかに分けるとこんな感じだったように思う。

①日本文化の中の道化について(ツベタナ・クリステワ先生)

②笑いの理論について(青井明先生)

③道化の視覚文化について(リチャード・ウィルソン先生)

日本美術のウィルソン先生には、この段階から指導をお引き受けいただいた。修士課程の東洋の美術の授業で、有益なアドバイスを多く頂戴したというご縁があったのだ。この三本柱を中心に、僕の博士課程は展開していった。

 独立した個としての意識を持たないと、いつまでもICUのぬるま湯につかったままである。本当はこの時点で学会に所属するなどして、外部との回路を築く必要があったのだが、諸事情により実現に至らなかった(そして、大学から離れるまで実現に至らなかった)。文学系の学会はほとんど視野に入れておらず、日本記号学会や発足したての表象文化論学会には関心を持っていたのだが。もし今、20代30代のあなたが「狭い世界に身を置いている」という自覚があるのだったら、外に目を向けてみることを強くお勧めする。たとえ謎の圧力がかかっても、それを振り払って、外へ。

 たしかこの年に、僕は某学会のスタッフの一人として忙殺されたのだ。ICUを会場として開催されたその学会は、なかなかの大規模だったわけだが、僕と敬愛する先輩の二人プラス数人のバイト学生が文字通り右往左往し、なんとか大怪我せずにやり遂げた思い出がある。ムチャクチャな要求をしてくる人がいたり、振込金額を盛大に間違える人がいたり、弁当の体裁にやたらとこだわる人がいたり、変な部外者に荒らされたり……。ああ、思い出すとキリがない! たった1回きりの経験でゴチャゴチャ言うのは下品だとわかってはいるが、この時ほど人間の業というものに触れた出来事はなかった。どんなイベントも、縁の下の力持ちによって支えられている。裏方として支えることの尊さが身に染みてわかった僕は、その後、音楽や演劇の現場スタッフに特別な敬意を抱くようになった。こういうことを若いうちに体験できたのは財産だと思うことにしよう。

 さてさて、研究の話に戻そう。日本文化論。なかでも「笑い」や「パロディ」といったキーワードに絞って研究を進めることになった。特に「道化」や「トリックスター」という概念に新たな解釈を加えたい。

 この頃から「”笑い”を研究しています」と言うと、「あっ、”お笑い”がお好きなんですね」と言われるのが通例となった。このやりとりが非常に面倒で、「笑い=テレビに出ているお笑い芸人」と反射的に結びつける人のなんと多いことか! 僕は今でも、M-1キングオブコントといった日本的「お笑い」の文化周辺に立ち込める空気が苦手で、これらの放映時期に、一億総評論家気取りになる傾向を嫌悪している。要するに、「半可通」というやつですね。ツベタナ先生が『Mr.ビーン』のローワン・アトキンソンを引き合いに出し、僕がテレビのお笑いを作る人(放送作家のことかと思われる)になるべきだ、なりなさい、いや、なる! と勝手に決めつけてきてくるのにも弱った。いまだによくわからんのだが、僕はそういう職業に就きたいと発言したことはない。

 「笑い」は幅の広いものだと考えていた。単に面白いだけでなく、哀しく、カッコいい。ときには、危険な武器にもなり得る。そんな事情を周囲に説明する能力が僕に足りなかっただけなのかもしれない。笑いを支配するようになるということは、権力と露骨に結びつくということでもある。これはまあ、古今東西、さまざまな例を見ればわかることだろう。

 いかん、一瞬、研究者モードになりかけた。文筆家に復帰しよう。

 そんなこんなで、博士課程からは正式にツベタナ先生のTA(ティーチング・アシスタント)の一人になった。学び、仕える刺激的な日々。先生の姿勢から学ぶことは膨大で、「おもてなし」と「(相撲用語でいうところの)かわいがり」の双方を経験した。

 就職組からの「志村はいいよなー。気楽で。俺も大学院とか行ってみたかったわ」みたいな声がぽつぽつと聞こえてきたのもこの頃。先輩ならまだしも、同級生や後輩に言いたい放題言われて、悲しくなった。「なんでそこまで言われなきゃいかんの?」とブチ切れたくなるのをこらえてヘラヘラ笑っていたが、当時の彼らが経験の浅い社会人だったという状況を考慮に入れても、失礼だ。時に人は、自由を求める者、自由を謳歌する者に対してイヤなことを言う。みんな、さまざまな事情を抱えて生きているなあ。まあ、こういうことをネチネチ言ってくる奴とは必然的に疎遠になるのだが。

 そうだ。ツベタナ先生といえば、この時期に、先生の前でQUEENを歌う羽目になったのが鮮明な記憶である。僕と仲の良かったメロユニの後輩(ギター)がツベタナゼミで卒論指導を受け、いよいよ巣立つというタイミングでの企画だった。「We Will Rock You」「Don't Stop Me Now」に加え、先生の熱烈なリクエストにより「I Want It All」を披露した。数あるQUEENの名曲の中でもこの曲がお好きだというのだから、シブいな! と思った(ギター・ソロは派手だが)。なんだか気恥ずかしくもあったが、あれは感動的な体験だった。

 メロユニでも大学院のツベタナゼミでも一緒だった親友(ドラム)の旅立ちを見送る立場になった。彼の大好きなRUSHでヴォーカルを務めた。もちろん、ゲディー・リーみたいにベースを弾きながら歌えるわけがないし、そもそもあんな複雑なベースなんて弾けない。彼は仲良くなりたての頃に「志村くん! U2が好きなんだったら、RUSHも好きだよ!」と意味不明な尺度でRUSHの素晴らしさを語ってくれた人で、その言葉に触発された僕はアルバムをほぼ全て揃えたほどだ。DIZZY MIZZ LIZZYが大好きという互いの共通点もあった。哀愁の共鳴ってやつですね。「The Spirit Of Radio」を歌いながら、「ああ、これが自分にとっても最後のメロユニのライヴになるなあ」と考えたら、泣きそうになった。あのステージ以降、僕はメロユニの表舞台から去っている。大学院生とはいえ、OBみたいな人間があんまりしゃしゃり出てもねぇと思ったのだ。

 ちなみに、この彼はいつの間にか作家デビューしていて、度肝を抜かれた。聞いてないぞ。勝手に宣伝してご迷惑をかけるとアレだから、なんとなく、僕のツイッター(現X)などでお察しください。人生、何がきっかけで、どう変わるかわからないものだ。並木先生の格言「人生は道の逸れ方で決まる」を折に触れ思い出してしまう僕である。

 正直に告白すると、博士課程の最初の2、3年はキャンディダシー執筆とTA仕事のことばかり考えていて、面白い事件がないような。青春の燃えカスみたいなのは、たしかにあった。そんななか、僕はその後の人生を大きく変える決断を下すことになるのだが……。